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鶉野⾶⾏場跡は、第⼆次世界⼤戦時、戦局が悪化しはじめた頃、パイロットを養成するために設置された旧⽇本海軍の練習航空隊の飛行場跡です。正式名称は「姫路海軍航空隊」であり、地元では鶉野⾶⾏場と呼ばれています。
昭和18年3月に工事が着⼯され、同年10⽉に、姫路海軍航空隊が開隊されました。ここでは、九七式艦上攻撃機を使用した実用訓練が行われていました。
また⾶⾏場の南西部には、昭和18年末頃に、川⻄航空機姫路製作所鶉野⼯場が設けられ、終戦までに、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み⽴てられ、この飛行場で試験飛行が行われました。
昭和20年2月、姫路海軍航空隊においても、神風特別攻撃隊「⽩鷺隊」が編成され、鶉野飛行場から待機基地である大分県宇佐へ、さらに出撃基地である鹿児島県串良へ飛び立ち、沖縄での作戦で63名の尊い命が失われました。
現在、鶉野⾶⾏場のコンクリート製滑走路跡は、国から払い下げを受け、加⻄市が管理しています。令和4年4月にオープンした加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」をはじめ、周辺に数多く残る戦争遺跡群を「鶉野フィールドミュージアム」として、戦争の歴史を伝え残し、平和の学びの場として活用を図っています。