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8月23日 『加西の歴史再発見講座』の4回目が開催されました。
講師 奈良県立万葉文化館 研究員 竹 内 亮 氏
テーマ 「古代寺院について」
この講座はコロナ感染拡大第7波の状況を踏まえ、竹内氏の提案により、リモートでの講演会となりました。当日、奈良県立万葉文化館にいらっしゃる竹内氏と加西市の受講生をインターネットで繋ぎました。
本日の演題は「古代寺院について」です。加西市で言えば殿原廃寺、吸谷廃寺、繁昌廃寺、野条廃寺が建てられた7世紀頃の講話で、古代寺院は誰が建立して、どのように維持管理されていたのかというお話です。
当時の寺院は次の人々によって維持管理されていました。
その一つが「壇越(だんおつ)・・・地方有力者である寺院の施主」と呼ばれる人物です。 その他に「知識(ちしき)・・・その寺院に対して金品の寄付をしたり労働の提供などをする人々。現在の檀家に当たる人々」と呼ばれる人たちです。
この両者が協力することによって古代寺院は維持管理されていたのです。
加西市の例としては播磨国賀茂郡既多寺(はりまこくかもぐんけたじ)で書写された知識写経について説明してくださいました。
播磨国賀茂郡既多寺というのは殿原廃寺のことであろうということです。
その写経には針間国造(はりまこくぞう)という壇越(だんおつ・・・寺院の施主)が登場し、もちろん鴨里(かものさと・・・今の加西市)の知識(ちしき)と呼ばれる人々も登場します。 そのほかに神崎郡の人物や物部連(もののべのむらじ)・平群朝臣(へぐりのあそみ)という大和(現在の奈良県)の人物も登場します。
このことから知識(檀家)の住まいは賀茂郡西部が中心で、壇越である針間国造が写経のために人々を集めた範囲は賀茂郡西部から神崎郡の一部にまたがり、その交友関係は遠く中央の大和にまで及んでいたことがわかります。
このように、当時の寺院は地域のコミュニティ(社会)があることで成立し、寺院があることで地域のコミュニティ(社会)は安定していたのです。
今回の講座はコロナ感染拡大第7波ということでリモート講演会の形をとりましたが、講座生の皆さんこれまで以上に熱心に視聴され、有意義な講座となりました。