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青野原俘虜収容所の閉鎖

記事ID:0001811 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

第一次世界大戦は1918年10月に停戦し、翌年に講和条約が調印されました。オーストリア = ハンガリーは解体され、被支配地域からいくつかの新国家が誕生しました。このような新国家に属することになった捕虜はいち早く解放され、それから残された捕虜たちも解放されていくことになります。彼らはやって来たときと同じ播鉄大門駅(1916〔大正5〕年に大門口駅から改称)から列車に乗り、青野原を離れました。写真は、写っている捕虜たちが冬服を着ていることから、解放時のものだと思われます。

画像:播鉄大門駅
播鉄大門駅の配置図
(『大門誌』(大門誌編集委員会編集、兵庫県社町大門発行、平成3年3月)より)

 

写真:捕虜解放時と思われる播鉄大門駅
捕虜解放時と思われる播鉄大門駅(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏提供)

 

青野原に収容されていた「ユーゴスラビア」人捕虜71名は、クロブチャルに率いられ、1919(大正8)年12月5日に神戸港から出航するスヒンクス号で帰国しました(『中外商業』1919〔大正8〕年12月4日)。その後12月27日には、青野原の捕虜222名が神戸を出航する喜福丸に乗船し、習志野・似島・久留米に収容されていた捕虜たちとともにドイツ・ヴィルヘルムスハーフェン(「ヴィルヘルムの港」という意味の地名)に向かいました。

1919年12月半ばになってやっと、12月27日が愛する故郷への出発日ということが知らされた。オーストリア人の中で幹部は全員帰れるが、残り66人の定員は146人からくじ引きで選び、はずれた80人は残らざるを得ないことになった。我々2人の豚の飼育係が5時頃豚小屋から帰ってきたときには、当たりくじはまだ残っていた。もう1人の飼育係が 1912年次で、私が1913年次だから、彼がまずくじを引くべきだったのに、彼は断った。そこで私がまず引いたら、当たりだった。
(「ケルステン日記」より)

写真:神戸港に停泊する喜福丸
写真:神戸港に停泊する喜福丸(ディーター・リンケ氏所蔵)

 

捕虜たちを乗せた喜福丸は、青島やスマトラ島に立ち寄りながら、故国ドイツのヴィルヘルムスハーフェンに到着しました。しかし、帰国を喜ぶケルステンが目にしたのは、敗戦後変わり果てたドイツの姿でした。

日本を発って63日後、我々はヴィルヘルムスハーフェンに上陸した。我々が当地の水門に入ると、腹をすかした子どもが我々にパンをねだった。この数日興奮することが続き、また故国を前にして興奮していたため、パンの消費が減って余っていた。そこで我々は白パンを水門の貯水池の端に向かって投げた。我々の眼前で起こったことを、私は生涯忘れないだろう。パンを投げると、ドイツの水兵、兵士がパンに向かって突進し、子どもたちを押しのけてパンを奪い合ったのである。その時私はデッキの下へ飛び込んで、しばし泣かざるを得なかった。
(「ケルステン日記」より)

写真:ヴィルヘルムスハーフェン
ヴィルヘルムスハーフェン(ディーター・リンケ氏所蔵)

 

最後に解放された捕虜たちは、翌年1月27日神戸出航のハドソン丸に乗船し、それぞれの目的地へと出発していきました。その後、役割を終えた青野原俘虜収容所は2月29日に閉鎖されました。


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