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捕虜製作品展覧会
1918(大正7)年12月14日から19日にかけて、青野原収容所において捕虜が製作した作品の展覧会が行われました。展覧会の開催に際して、宮本秀一青野原収容所所長は次のように報告しています。
展覧會ノ趣旨
本展覧會ノ趣旨ハ獨墺国内ニ於ケル教育参考品・農工藝品及日用品ヲ製作セシメ将来ノ資料ニ供スル為メ開設セントスルモノナリ
展覧會ノ場所期日
場所 加東郡高岡村青野原俘虜収容所南側廠舎
開會期日及時間 大正七年十一月十五日ヨリ同二十日ニ至ル六日間毎日午前九時ヨリ午後三時迄
展覧物品ニ関スル説明
展覧物品ハ獨墺俘虜カ収容所内ニ於テ極メテ少数且不完全ナル器具並最モ狭隘ナル場所ニテ製造シタル者ナルヲ以テ一小品ト雖多数ノ日子ト勞力ヲ要シタルモノニシテ品目及数量ハ別紙目録ノ如クナルモ其主要ナルモノニ關シテハ左ニ概要ヲ説明ス
(「展覧會開催ノ件伺」『欧受大日記』1918〔大正7〕年)
後に開催期間は、12月14日から19日までの6日間に変更されましたが、展覧会は多くの人々で賑わったようです。ドイツやオーストリアの技術を用いて製作された作品は、日本側にとって今後の参考になると考え、収容所当局は展覧会を開催しました。一方、捕虜たちにとっても、展示販売は現金収入を得る貴重な機会となりました。
出品された作品を見てみると、絵画や木工品、金属製品、機械類もあり、軍艦の乗組員が大多数を占める青野原収容所の捕虜たちが技術者の集団であったことを示しています。特に機械類は、「数は少ないが、人々から最も好評を博していて、石油発動機とボタン製造機は購入希望者がとりわけ多く、石油発動機に至ってはその概要が鷺城新聞と東京報知新聞に掲載されたため、各地から注文が続々と来ている」(「展覧會開催ノ件伺」)と報告されています。また、籾取器械と秣草切取器械は加東郡農会の依頼で製作されました。展覧会に関する別の史料(ドイツ・ヴュルテンブルク州立図書館所蔵「展覧会ガイドブック」)によると、青野原収容所の写真を数多く残したハンクシュタインも、収容所とその周辺を写した写真帳を出品していました。
展覧会会場要図(防衛省防衛研究所所蔵)
展覧会の様子(ディーター・リンケ氏所蔵)
展示品と見物客(ディーター・リンケ氏所蔵)
捕虜製作品「金属機械」(ディーター・リンケ氏所蔵)
捕虜製作品「チェロ」(ディーター・リンケ氏所蔵)
多くの人々の関心を集めた捕虜製作品展覧会を通じて、青野原捕虜収容所の捕虜たちと地域社会とがつながっていました。そのつながりを示すものとして、捕虜が製作した作品が現在も残されています。
捕虜製作品「灰落(井戸型)」(個人蔵)と、原型となった収容所内の井戸
写真:捕虜製作品「煙草道具」(個人蔵)
これらの作品は捕虜製作品展覧会の際に販売されて、近隣住民の手で大切に保管されてきました。これらは当時を知るための貴重な資料となっています。次の絵葉書も、捕虜作品展覧会に出品されたものです。
写真:捕虜製作品「絵葉書」(個人蔵)
これら2つの刺繍は、捕虜が収容所に持ち込み、後に譲り渡した物だと考えられます。
写真:刺繍(個人蔵)
左の刺繍には、オーストリア帝国を象徴する紋章(双頭の鷲、その頭上には帝冠、そして胴部には皇帝フランツ=ヨーゼフの頭文字FJを加えたハプスブルク=ロートリンゲン家の紋章)が掲げられています。そして、この帝国紋章の下に、捕虜たちが乗っていた「皇妃エリーザベト」号も描かれています。「中国1913年」とは最後に母港を発ち、東アジアに派遣された年を示しており、「日本1916年」が収容所に収容されている現在を示していると考えられます。名前が刺繍されているフランツ・マララン Franz(c) Malalan は、「皇妃エリーザベト」号の乗員だった捕虜兵(二等水兵)で、当時オーストリア=ハンガリー領内だったトリエステ近郊の出身者です。
右の刺繍には、ドイツ軍艦旗が掲げられ、上部に自らの軍役を誇る言葉が刺繍されています。また中央部には「我々は、皇帝陛下と祖国のために中国沿岸を守備してきた」と記されています。下部にドイツ軍が駐留していた中国膠州湾と思われる景色が描かれ、その上にある「砲兵 Kanonier」「イグナッツ・シェフチックIgnatz Schefczyk」は、青野原収容所のドイツ人捕虜(オーバーシュレージエン出身)の名前です。
展覧会に出品されたもの以外にも、青野原収容所の捕虜ゆかりの品が残されています。農家を描いた油絵は、捕虜が描いて地元の方に送った作品です。
写真:農家を描いた油絵(個人蔵)
上の絵を描いたのは、ヴィクトル・クロブチャルViktor Klobucar(1878-1965)という人物です。彼は、オースオリア=ハンガリー共通海軍大尉であったクロアティア人です。クロブチャルは、軍人貴族の家系に生まれ、士官学校卒業後は海軍に入隊しました。海軍では、海軍航空部隊の設立に携わり、オーストリア海軍初の飛行部隊指揮官となります。自身も操縦士であり、1911年には英国一周飛行機レースにも出場しました。
その後、クロブチャルは「皇妃エリーザベト」号の乗組員となり、青島にて第一次世界大戦を迎えました。他のオーストリア = ハンガリー兵と同じく、青島陥落後に捕虜となり、日本で捕虜生活を送ることになりました。1918(大正7)年8月に久留米収容所から青野原収容所へ移送され、その年の12月に青野原で開催された捕虜製作品展覧会において、14点の油絵を出品しています。
ここに掲載した油絵は、クロブチャルが1919年の麦秋を描いたものであり、モデルとなった高岡(加東市)の農家に贈られたものです。
第一次世界大戦の結果、オーストリア=ハンガリーは崩壊し、南スラブ地域には「ユーゴスラビア」という新しい国家が生まれました。クロブチャルの出身地クロアティアもこの国に含まれていました。1919(大正8)年12月5日、クロブチャルは「ユーゴスラビア」人(青野原71名・習志野9名)を引率し、他のドイツやオーストリア=ハンガリー捕虜に先行して帰国を果たしています。