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演劇・演奏会
スポーツ以外にも、捕虜たちの気晴らしとして演劇会や演奏会が催されていました。収容所には、捕虜たちによる楽団が編成され、楽器が揃えられました。これらの催しはバラック内で行われていましたが、バラックが手狭であったため、後に観客席を備えた野外舞台も作られることもありました。
ここ青野(原)では、我々は何度か「ヴァラエティの夕べ」と呼ぶ催しや演劇の上演も行った。とりわけ《壊れ甕》や《ミンナ・フォン・バルンヘルム》、それに一幕物である。バラックには最悪の場合ぎゅうぎゅう詰めで最高250人入ったが、その半数だけなら十分な広さだった。一度、名前は忘れたが、ある劇が上演され、それにはバラックの舞台は小さすぎた。そこで我々は劇をすべて野外で演じるように準備した。点呼場が劇場の条件を完全に満たしていた。そこから調理場に向かって坂が下っていて、調理場の前を舞台にすれば、あとはバラックの椅子を並べれば観客席の出来上がりだった。舞台作りに始まって、舞台装置などすべてが完成したところで、司令官がバラックでやるべきだと、野外での上演を禁止すると言った。我々は彼に、十分な広さがないということを分かってもらおうとした。我々は上演を中止すると脅してやっと、彼は折れた。本来はダメだが、一度だけならよいと。なぜなら、彼はちょうど青野[原]で演習している連隊の将校を招待していたからだ。
(「ケルステン日記」より)
バラック内での演劇会(ディーター・リンケ氏所蔵)
野外に作られた舞台と観客席(ディーター・リンケ氏所蔵)
演劇《壊れ甕》(ディーター・リンケ氏所蔵)
演劇《靴踊り》(ディーター・リンケ氏所蔵)
扮装をする捕虜たち
《ヴァラエティの夕べ》のチラシ[PDFファイル/647KB](ディルク・ファン・デア・ラーン氏提供)
上演された《壊れ甕》は劇作家ハインリヒ・フォン・クライスト作の喜劇で、初演は1808年です。もう一つの《ミンナ・フォン・バルンヘルム》は、18世紀の啓蒙思想家で劇作家でもあったゴットホルト=エフライム・レッシングによる恋愛喜劇です。これらは当時においても人気の演目でした。
また「ヴァラエティの夕べ」とは、どのようなイベントであったのか。残されたチラシを見てみると、独唱、朗読、寸劇などに加えて、「楽団」による演奏も行われていたようです。
さらに「慈善演奏会」というイベントが、1919年3月30日に行われています。これは、「東シベリアで苦境にある戦友のために」という言葉が示す通り、1917年におきたロシア革命の影響で、シベリアにある収容所に留まっていた同胞に捧げた演奏会でした。ここで演奏された演目は、以下の通りでした。
- 歌劇「レーモン」序曲
- レヴリ
- ソルヴェイグの歌(劇音楽「ペール・ギュント」より)
- 歌劇「ノルマ」序曲
- 巡礼の合唱(歌劇「タンホイザー」より)
- 軍隊行進曲第一番