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食事
収容所当局は、捕虜の体重を毎月測定し、食事の総カロリーを報告しており、彼らの体調管理には気を配っていたようです。それでも捕虜たちにとって、収容所の食事は決して満足のいくものではなかったようです。
食事の様子(ディーター・リンケ氏所蔵)
食事は以前の福岡よりも少なかったが、それは理解できないことではなかった。なぜならば世界中で食糧難が深刻であり、60グラムという1日の割り当て分からの増量は考えられなかったからである。
(「ケルステン日記」より)
きわめて少なくなったパンの割り当てのために、我々はもっと安いが劣悪な黒パンに頼らざるを得なかった。それはまだ手に入るからである。さらに数か月後、パンにかなり多くのジャガイモでんぷん粉が混ぜられるようになったが、それはいつも湿って生焼けであり、食べられる代物ではなかった。
(「ケルステン日記」より)
1915年以来出された要望は、食糧の割り当てが少なくなったので、それに関することが多くなった。例えば豚の飼育、パンを自分たちで焼く、台所にパン焼きがまを作る(場所は十分にある)、石鹸を作る(当時はまだ油脂が何とかなった)。要望はすべて主計長によって却下された。
(「ケルステン日記」より)
食事の改善に関する要望が聞き届けられたのは、新しい主計長が着任した1918(大正7)年のことでした。パン焼きがまを設置し、捕虜自らでパンを焼くことが許されたのです。
パン焼き場(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏所蔵)
調理場(ディーター・リンケ氏所蔵)
我々は代わりにもっと小さい白パンの割り当てを要求し、実現させた。そして新しい主計長は、パンを自分たちで焼かせてほしいという希望を叶えてくれた。ケーキ製造のマイスター1人とパン焼き職人2人がきわめて短期間で、台所の中心に十分な大きさをもった完璧なパン焼きがまを設計してこしらえた。そのかまで最良のオーストラリア産小麦粉を使って良質の白パンを焼き、パンの割り当ては以前に比べてほぼ2倍の量となった。2人の煉瓦積み工の功績も忘れてはならない。パン焼き職人には自分で調達した物を加えてお菓子を焼き、「お金持ち」[所持金を持っている捕虜]に売ることが許されていた。
(「ケルステン日記」より)