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捕虜間の反目

記事ID:0001800 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

青野原収容所には、オーストリア=ハンガリーの民族構成を反映して、さまざまな民族出身の捕虜が収容されていました。バラックの割り当てもその構成を反映していました。

オーストリアの捕虜は、およそ9つの民族集団からなっていた。そのためハンガリーやクロアティアのバラックがあった。私は一度、喧嘩している 2人のハンガリー人をなだめようと、次のように言った。「君らはとにかくみんなハンガリー人なのだ、とにかく仲良くしろ」。2人は次のように私に言い返した。「我々皆がハンガリー人だとは言えない、我々ハンガリー棟には6つの民族がいる」。クロアティア棟においても同様であった。バラックの左半分はクロアティア人で60人、右はドイツ系オーストリア人35人とドイツ人25人だった。
(「ケルステン日記」より)

このような民族の違いによる争いがあったことが、青野原収容所の記録(防衛省防衛研究所所蔵『欧受大日記』)に記されています。

右十三名ノ者ハイストリア、トリエスト、及ビダルマチア地方ノ出身ニシテ、元来伊太利[イタリア]系ニ属シ、深く自己ノ伊太利人ナルコトヲ自覚シ、心窃[ヒソ]カニ伊太利ヲ謳歌スルノ傾向アリ。収容当初ヨリ常ニ他ノ墺国[オーストリア]俘虜ヨリ疎外セラレ、勢ヒ孤立の境遇ニ立チツツ経過シ来タリシガ、客年初夏、伊太利ノ宣戦シテ連合国側ニ参加セル以来、一層独墺国俘虜ノ反感ヲ喚起セシモノノ如ク一般ノ者ハ彼等ヲ目スルニ、伊太利ニ心ヲ寄スル非国民ナリトシ、事毎ニ侮辱ヲ加フルノ状勢ナリシガ、客年六月遂ニ些事ノ動機ヨリ彼等少数者ヲ圧迫シ、暴力ヲ加ヘタルコトアリ。爾来陰ニ陽ニ其ノ程度ノ迫害ヲ
加ヘラルルガ如ク屡次保護ヲ願ヒ出ヅルコトアリ。
(「俘虜中隔離ヲ要スル者ノ件報告」『欧受大日記』1916〔大正5〕年)

イタリアは開戦時中立でしたが、1915年5月にはオーストリア = ハンガリーに対して宣戦布告をしていました。したがって、イタリア系捕虜たちは「敵国人」でもあり、周囲を恐れて保護を求めたのです。実際にイタリア系捕虜の中には、イタリアが属する協商国陣営に協力するためとして「破壊用ヂナミット(ダイナマイト)弾」と「飛行機用爆弾」の図面を提出し、それを戦場で役立ててほしいという願いを出した者もいました。

当所収容俘虜中ノ伊太利種族ニ属スル墺国海軍三等水兵ブルノー、ピンスキーハ伊国軍ニ参加ノ希望ヲ有スルモ現下ノ境遇ハ到底之ヲ許サザルニ依リ自己ノ代理者トシテ戦場ニ立タシムル目的ナリトテ自己ノ考察ニ係ル破壊用ヂナミット弾及飛行機用爆弾ノ断面図ヲ呈出シ願ハクハ日本政府ニ於テ審査ノ上有効ト認メラレナハ連合国側ノ用ニ供スル如ク取扱ワレ度シト申出候、斯術上何分ノ参考ト相成儀トモ被存候ニ付本人調製ノ別紙断面図及送付候也。
(「俘虜ノ考案ニ係ルヂナミット弾計画図送付ノ件通牒」『欧受大日記』1916〔大正5〕年)

提出された「破壊用ヂナミット弾」図面
提出された「破壊用ヂナミット弾」図面(防衛省防衛研究所所蔵)

またこうした民族間の反目が、実際の騒擾事件に発展することもありました。

官下加東郡青野原俘虜収容所ニハ俘虜独逸人約二五〇名墺国人二二〇名ヲ収容シ居レルカ本月十日午後九時三〇分頃同収容所ニハ俘虜独逸人ト墺国人トノ間に紛擾を醸シ独逸人俘虜ハ墺国人俘虜「バチリウエクスラウ」ホカ二十五名ト格闘シ「バチリウエクスラウ」ノ右手ニ負傷セシメタリ。原因其ノ他ニツキテハ目下尚詳細調査中ナルモ過般墺国内ニモ反乱勃発シ中欧同盟側ニ不利ヲ来タシタルは反乱者コロアツベンニ属スルモノニ起因セリ。
(「俘虜紛擾ニ関スル件」『欧受大日記』1918〔大正7〕年)

1918(大正7)年7月、つまり大戦末期におきたこの騒擾事件には、以下のような原因がありました。ドイツ人捕虜たちは、オーストリア = ハンガリー国内で反乱が起きているためにドイツ・オーストリア陣営が不利になっていると考えました。そして、その反乱とつながっていそうなスラブ系の捕虜たち(「コロアツベン」=クロアティアと思われる)と喧嘩になったのです。青野原収容所は戦場から遠く離れていましたが、大戦の経過(イタリアの参戦や国内での反乱)は収容所内の捕虜にも影響を与えていました。


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