ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育委員会 > 生涯学習課 > 捕虜の構成

本文

捕虜の構成

記事ID:0001799 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示
<外部リンク>

姫路収容所から青野原収容所に移送されてきた捕虜は約300名ほどでしたが、1916(大正5)年10月に閉鎖された福岡収容所から移送されてきた者を加えて、青野原に収容された捕虜は400名を越え、最大時では500名弱まで増えました。
『独逸及墺洪国俘虜名簿(大正6年6月改訂)』(俘虜情報局、外交史料館所蔵)によれば、青野原収容所の捕虜は、将校とそれに相当する者が13名、准士官以下の者が430名です。このうち、ドイツ兵は249名、オーストリア=ハンガリー兵は194名です。当時のドイツとオーストリア=ハンガリーの地域構成を反映して、捕虜たちの出身地も様々でした。とりわけオーストリア=ハンガリー兵は、まさに多民族からなる集団でした。

オーストリア=ハンガリー兵の出身で特徴的なのは、ダルマティアやイストリア、そしてトリエステを中心とする沿岸州と呼ばれていた地域の出身者が非常に多いことです。これらアドリア海沿岸地域の出身者は51名になります。この地域には帝国海軍の軍港があり、青島で沈んだ「カイゼリン・エリーザベト」号の母港プーラもアドリア海にありました。したがって、「カイゼリン・エリーザベト」号の乗員であった捕虜たちの出身地の中で、アドリア海沿岸地域が多いことも必然的であったと考えられます。しかし、このアドリア海沿岸地域出身者多いということが、イタリア系やクロアティア系の者が多いことにつながり、捕虜間に軋轢を生じさせました。

Adobe Reader<外部リンク>

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)


オススメ
  • 気球の画像
  • 紫電改の画像
  • 播磨の国風土記の画像<外部リンク>