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青野原俘虜収容所の世界
捕虜たちが青野原に移送されてきたのは 1915(大正4)年9月で、第一次世界大戦の停戦(1918年10月)と講和条約の調印(1919年6月と9月)を過ぎてなお、最後まで収容所に残されていた捕虜が帰国の途についたのは 1920(大正9)年1月のことでした。つまり、ドイツとオーストリア=ハンガリー兵たちの中には、最長で4年4か月に及ぶ捕虜生活を青野原で過ごした者もいたことになります。彼らの生活は、どのようなものだったのでしょうか。ここでは、実際に青野原収容所で捕虜となっていたヘルマン・ケルステン(ドイツ海軍二等砲兵)が記した日記(以下、「ケルステン日記」)や、同じく捕虜であったハインリヒ・ハンクシュタイン(総督府無線通信士)が遺した写真などから、青野原俘虜収容所の世界をうかがい知ることができます。
青野原収容所には、捕虜たちが生活するために兵卒用宿舎(バラック)3棟、将校用宿舎1棟があり、さらに事務室及び医務室用のバラック、厨房および浴室として使用されたバラック、酒保がありました。ここに多い時で500名弱の捕虜が暮らしていました。彼らの監視には、約40名の衛士と約15名の警察官があたっていました。捕虜たちは、朝夕の点呼、所持品の検査、所持金の制限(30円まで)など、一定の制約下には置かれていましたが、それ以外では比較的自由が認められていました。
以下は、「ケルステン日記」やW・テッゲ作の青野原俘虜収容所全景図、写真資料といった同時代の収容所時代の資料と、昭和21年の航空写真や平成14、17年の加西市史建造物調査資料、加西市地形図といった戦後の資料をもとに、神戸建築文化財研究所の尾瀬耕司氏によって復元された青野原俘虜収容所の配置図です。
青野原俘虜収容所配置図(尾瀬耕司氏作成)
青野原町地形図
青野原収容所配置図を重ねた地形図(尾瀬耕司氏作成)
航空写真(昭和21年) 国土地理院所蔵
青野原収容所配置図を重ねた航空写真(尾瀬耕司氏作成)
青野原収容所の外観1(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏提供)
青野原収容所の外観2(「俘虜写真帖」(鳴門市ドイツ館提供))
青野原収容所の表門(ディーター・リンケ氏所蔵)
青野原収容所内(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏提供)
スペイン風邪対策で布団が干されたバラック(ディーター・リンケ氏所蔵)
この写真では、バラックの屋根に布団を干す様子が見られます。これに関して、ケルステンも日記の中で、「1918年にインフルエンザが猛威を振るったときには、収容所の仲間にも患者が出た。朝から晩まで布団を干すことを精力的に真面目にやることで、我々は病気にはかかっても、死者は出さなかった」と書き残しています。当時世界中で流行したインフルエンザ(スペイン風邪)は、死者5,000万~1億人とも言われ、日本でも死者148万人に達していたと言われています。
バラック
兵卒用宿舎として使用されたバラックにはそれぞれ 60人ほどが寝食を共にしていました。
「ケルステン日記」によれば、バラック内には27mの板張りの寝台が2つ設置され、その間に6つのテーブルとベンチ、石炭ストーブが2つ置かれていました。一人あたりの寝るスペースは、幅90cmだったとそうです。
兵卒用宿舎の復元図(尾瀬耕司氏作成)
バラックの内部(ディーター・リンケ氏所蔵)
将校用宿舎の復元図(尾瀬耕司氏作成)
将校用宿舎の内部(「俘虜写真帖」(鳴門市ドイツ館提供))
酒保
酒保では、アルコール類も提供されていましたが、酒保を映した写真に見られるビールは、エンブレムから「アサヒビール」(大日本麦酒株式会社)であることが確認できます。また、「三ツ矢シャンペンサイダー(現三ツ矢サイダー)」(帝国礦泉株式会社)もカウンターに並べられています。
帝国礦泉株式会社は、昭和8年(1933年)大日本麦酒株式会社と合併します。約15年後に一つの企業になる2つのブランドが、奇しくも捕虜収容所の酒保のカウンターテーブルの上で並んでいます。日本飲料水史の貴重な一場面といえます。
酒保(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏提供)
大正期の三ツ矢シャンペンサイダー(左外)とアサヒビール(右外)(写真提供:アサヒグループホールディングス)
また、背後のサイダーの看板には「HIRANO WASSER」とドイツ語で記述されています。当時の帝国礦泉が、卸先をマーケティングしたうえで販売促進用の物品まで作成していたことが分かります。
上記酒保の写真から、サイダーの看板を拡大。