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青野原俘虜収容所の開設

記事ID:0001797 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

1915(大正4)年になり、戦争が長期化するにつれて、日本政府は捕虜の待遇改善のために本格的な収容所を建設し始めます。全国で捕虜収容所の統廃合が行われ、収容所は1917(大正6)年までに習志野、青野原、久留米、名古屋、似島、板東という6か所に集約されました。捕虜の移動に際しては、階級や国籍も考慮されていました。3か所の寺院を収容所として使っていた姫路収容所では、新たな収容所の建設が決定され、陸軍の演習場がある青野原台地に収容所を開設することになりました。
青野原俘虜収容所は1915(大正4)年5月に建設が決定し、6月から施設の建設が始まりました。収容所施設の建設工事は競争入札の結果、 姫路の五百旗頭喜八が4万1,000円で落札しました。その後6月21日に契約が結ばれ、収容所施設は青野原演習場の北端にある高岡廠舎の南側に建設されました。

青野原収容所の棟札(加西市教育委員会所蔵)の画像
青野原収容所の棟札(加西市教育委員会所蔵)

画像:捕虜が描いた青野原収容所全景図
捕虜が描いた青野原収容所全景図(W.Tegge作)(ディルク・ファン・デア・ラーン氏提供)

青野原の現地調査で偶然に発見されたこの棟札には、収容所新築にあたって設計者や工場主任官を務めた人物の名前に加え、工事を請け負った五百旗頭喜八の名前も見られます。この棟札によれば、起工日は6月25日で、竣工日は9月13日となっています。

捕虜の移動

9月20日に姫路収容所から捕虜が移送されてきました。捕虜たちは、まず特別列車で姫路から大門口駅(現在のJR加古川線青野ケ原駅)に到着し、そこから徒歩で青野原収容所に移動しました。その様子を写した写真(現在の小野市「復井町」交差点付近)からは、移動する捕虜の隊列を多くの見物人が取り囲んでいる様子が分かります。

青野原収容所へ移動する捕虜の隊列(個人蔵)の画像
写真:青野原収容所へ移動する捕虜の隊列(個人蔵)

写真下部には、「大正四年九月廿日獨墺俘虜青野原収容所□向フ(大門口附近)」と書かれています。


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