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姫路俘虜収容所

記事ID:0001796 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

捕虜の取り扱い

宇品から鉄道で移送されてきた捕虜は、1914(大正3)年11月20日に姫路に到着しました。姫路捕虜収容所では、船場本徳寺、景福寺、妙行寺の3か所が収容所として使われました。このとき、本徳寺にはドイツ兵、景福寺にはオーストリア=ハンガリー兵がそれぞれ150名ほど、妙行寺には将校など 10名余りが収容されました。併せて300人以上の捕虜が、1915(大正4)年9月までの10か月間姫路で生活をしていたことになります。なお、本徳寺と景福寺は日露戦争時のロシア兵捕虜も収容していました。
捕虜たちは姫路収容所における生活にも慣れ、時間をもてあますようになり、中には日本語を勉強する者もいました。12月に入ると、遠足も許可されるようになり、捕虜たちは姫路城天守閣にも登閣しています。収容所の閉鎖までの間に、このような外出が十数回許可されてました。また収容所内に酒保が設けられ、アルコール類などが販売されていました。これらを購入するための現金は、主にドイツの企業や在邦外国人からの寄贈金によって賄われていました。

写真:姫路収容所
姫路収容所(ディーター・リンケ氏所蔵)

収容所の1つ船場本徳寺には、ライン河畔の古城を模したモニュメント(噴水)が今も残されています。これは、捕虜兵ヴァルター・ネヴィガーが製作したものと考えられています。

写真:捕虜が製作したモニュメント(噴水)
捕虜が製作したモニュメント(噴水) (姫路市史料編集室所蔵)

写真:モニュメント製作者と思われるネヴィガー
モニュメント製作者と思われるネヴィガー(ディーター・リンケ氏所蔵)


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