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日本における捕虜収容所

記事ID:0001795 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

捕虜の取り扱い

第一次世界大戦時に捕虜となった人数は、世界中で800から900 万人と言われています。彼ら捕虜に対する国際的な取り決めが明文化されたのは、1907(明治40)年オランダのハーグで行なわれた第二回万国平和会議で調印された「陸戦ノ法規慣習に関する規則」(「ハーグ陸戦条規」)が初めてで、日本はこの条規を1911(明治44)年に批准しています。この規則の中で、第2章(第4条から第20条)が捕虜(当時は「俘虜」と表記されていた) に関する規定になっており、冒頭(第4条)で「俘虜ハ、人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」と謳われていました。
日本軍に捕えられた捕虜は、数の上ではヨーロッパ戦線における捕虜よりもはるかに少なかったのですが、日本政府はこの規則に従って捕虜を取り扱う必要がありました。まず日露戦争時の「俘虜取扱規則」を改定し、「俘虜取扱細則」と「俘虜処罰法」を新たに制定することで、捕虜に関する法が整備されました。そして、日本政府は1914(大正3)年9月14日に陸軍大臣の指揮下に「俘虜情報局」を設置し、青島の戦いで捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの捕虜兵たちを全国各所に設けられた収容所に分けて収容することにしました。

各地の捕虜収容所

1914(大正3)年11月14日に青島を発した捕虜たちは、17日に門司港に到着し、翌日宇品港に入りました。ここで、捕虜たちが収容される場所ごとに分けられ、各地へと移送されて行きました。当初捕虜収容所は、全国12か所にありました。

初期に開設された収容所

  • 東京 1914(大正3)年11月から1915(大正4)年9月
  • 静岡 1914(大正3)年11月から1918(大正7)年8月
  • 名古屋 1914(大正3)年11月から1915(大正4)年9月
  • 大阪 1914(大正3)年11月から1917(大正6)年2月
  • 姫路 1914(大正3)年11月から1915(大正4)年9月
  • 徳島 1914(大正3)年12月から1917(大正6)年4月
  • 丸亀 1914(大正3)年11月から1917(大正6)年4月
  • 松山 1914(大正3)年11月から1917(大正6)年4月
  • 福岡 1914(大正3)年11月から1918(大正7)年4月
  • 久留米 1914(大正3)年11月から1915(大正4)年3月
  • 大分 1914(大正3)年11月から1918(大正7)年8月
  • 熊本 1914(大正3)年11月から1915(大正4)年6月

これら初期の収容所は、寺院や公的施設、もしくは民間の建物を借用していました。その後 1915(大正4)年9月以降、本格的な専用施設を備えた収容所が開設されていき、既存の収容所の統合や移転が進められていきました。最終的に、日本の捕虜収容所は習志野(東京、福岡、大分、静岡から移転)、名古屋(市内から移転)、青野原(姫路から移転)、板東(徳島、丸亀、松山から移転)、 似島(大阪から移転)、久留米(市内と熊本から移転)という6か所に集約されました。これら6つの収容所は、陸軍の軍用地内に開設され、ほぼすべての捕虜が解放される 1920(大正9)年1月頃まで使用されていました。

後期に開設された収容所

  • 習志野 1915(大正4)年11月から1919(大正8)年12月
  • 名古屋 1915(大正4)年9月から1920(大正9)年1月
  • 青野原 1915(大正4)年9月から1920(大正9)年1月
  • 板東 1917(大正6)年4月から1920(大正9)年1月
  • 似島 1917(大正6)年2月から1920(大正9)年1月
  • 久留米 1915(大正4)年6月から1920(大正9)年1月

久留米俘虜収容所

久留米には1914(大正3)年10月から捕虜が収容されていましたが、本格化するのは青島が陥落して久留米に捕虜たちが移送された11月15日以降です。久留米の香霞園、大谷派教務所など急造の収容所に分散して収容されていましたが、1915(大正4)年6月、衛戍病院新病舎跡に本格的な収容所が稼動します。福岡収容所の捕虜の一部と熊本収容所の捕虜全員もここに収容され、総数1,309名(1916(大正5)年10月21日段階)で日本最大の収容所になりました。久留米出身部隊が青島攻撃に参加し、戦死者も出しているので捕虜の扱いが過酷だったという説もありますが、処罰の記録を見る限り、特に過酷であったとは考えにくい。音楽の演奏活動が最も盛んだったことも記録されています。

習志野収容所

習志野収容所は1915(大正4)年9月に稼動し、東京浅草寺に収容されていた捕虜を収容した。東京に近い土地柄で、国際的な監視の目もおよびやすく、「モデル収容所」の役割を果していました。音楽活動も活発で、「美しく青きドナウ」が日本で最初に演奏されたことで知られています。

板東収容所

四国には徳島、松山、丸亀に当初収容所がありましたが、1917(大正6)年にこれら収容所を統合する形で板東収容所が開設されました。徳島や松山ではすでに収容所新聞が発行されており、それを受け継ぐ形で『バラッケ』紙が刊行されました。現在その復刻版とその日本語版を読むことができます。音楽活動も受け継がれ、ベートーヴェンの第九交響曲が日本で最初に演奏された場所として知られています。映画『バルトの楽園』の舞台となっています。

名古屋収容所

名古屋では、捕虜は当初大谷派別院に収容されていましたが、1915(大正4)年9月に東区にあった陸軍工兵隊の演習用地に本格的な収容所を建設してここに移されました。収容人員は500名余で規模は小さかったが、街中にあって、働く場が多く、名古屋の産業の発展に貢献することになりました。収容者の一人フロイントリープはのちに敷島パンに雇われ、その後神戸でパン工房を設立して勇名を馳せました。

似島収容所

広島港沖に位置する似島は富士山に似た形をしているので似島と呼ばれている。ここには1917(大正6)年になって大阪の隔離所に収容されていた捕虜500余名が移されました。この島には馬匹の検疫所などの軍施設があり、また呉の軍港も近かったので塀で囲まれて周囲が見えないように作られていたので閉塞感がありました。ここで収容されていたユーハイムは、捕虜の展示即売会で好評を得たバウムクーヘンを戦後売り出すことになります。


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