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大戦の勃発と日本の参戦
大戦の勃発
オーストリア=ハンガリーのセルビアに対する宣戦布告を受けて、セルビアを支持するロシアが総動員令を発令し、オーストリア=ハンガリーと戦争状態になります。これに対して、オーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツがロシア、次いでフランスに対して宣戦を布告しました。フランスやロシアと協商関係にあったイギリスは当初参戦を躊躇していましたが、ドイツがヨーロッパにおける覇権を握ることを恐れ、ドイツの中立国ベルギー侵攻を確認した8月4日に参戦しました。こうして、バルカン半島における二国間の対立がヨーロッパ諸国を巻き込んだ大戦となっていきます。
その後1915年5月、開戦時には中立だったイタリアがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告をし、1917年4月にはアメリカが参戦しました。主要参戦国の植民地を含めれば、戦争の影響は世界各地に及びました。そして戦争の犠牲者もかつてないほどの数に上りました。第一次世界大戦におけるドイツとオーストリア=ハンガリーの戦死者数は、300万人以上とも言われ、そのほか民間人にも多数の犠牲者が出ました。大量に動員された兵員数や、格段に性能が向上した兵器の大量投入が未曾有の戦禍をもたらしたのです。
日本の参戦
ヨーロッパ諸国が次々と参戦していく中で、日本でも参戦の是非が検討されました。参戦に慎重な意見もあったものの、この機に日本の権益拡大を目指そうとする参戦論が高まりました。参戦を支持する元老井上馨は、第二次大隈重信内閣に送った意見書に「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑にして、日本国は直ちに挙国一致の団結を以て、此の天佑を享受せざるべからず」と記しています。イギリスの参戦を受けて、大隈内閣は1914(大正3)年8月7日の閣議で参戦の方針を決定しました。この方針に従って、8月15日ドイツに対する最後通牒が出され、8月23日には日本とドイツは戦争状態となりました。日本は、アジアにおけるドイツの拠点である中国・青島(チンタオ)と南洋諸島に軍を派遣しました。
青島に派遣された日本軍の兵数は5万1,700人で、そこにイギリス軍1,390人が加わり、青島を包囲していました。対するドイツ青島駐留軍は5,000人で、司令官ヴァルデック総督も当初から敗戦を覚悟していました。10月31日、包囲していた日本軍が青島への総攻撃を開始した時、オーストリア=ハンガリー海軍の巡洋艦「皇妃エリーザベト」号も青島に駐留していました。その結果、「皇妃エリーザベト」号の乗員もドイツ軍とともに日本軍と戦うことになったのです。戦力で圧倒的に劣っていたドイツとオーストリア=ハンガリーの青島駐留軍は、11月7日に降伏し、その時までに「皇妃エリーザベト」号も砲弾を撃ち尽くし自沈していました。この青島の戦闘で戦死したドイツとオーストリア=ハンガリー兵は210人で、捕虜となったのは4,689人でした。そして、捕虜たちは日本へと移送されたのです。