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サラエヴォ事件

記事ID:0001792 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 <外部リンク>

当時のバルカン情勢

ロシア帝国とオスマン帝国が戦った露土戦争(1877-1878年)によって、バルカン半島におけるオスマン帝国の衰退は決定的となりました。この紛争を調停するために各国代表が集まったベルリン会議において、バルカン諸国の中でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が正式に承認され、オーストリア=ハンガリーはボスニア=ヘルツェゴヴィナの施政権を手に入れました。
オーストリア=ハンガリー共通外相アロイス・レクサ・エーレンタールは、ロシアとの協調関係を保ちつつ、バルカン半島における自国の権益を確保することを目指していました。オーストリア=ハンガリーはオスマン帝国でおきた青年トルコ革命(1908年7月)の混乱に乗じて、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合(1908年10月)を宣言します。これに強く反発したのがセルビアでした。1903年の政変で即位したセルビア国王ペータル1 世(位1903-1918年)は国内の急進派と結び付き、オーストリア=ハンガリーと対立し、ロシアと接近していました。また、ボスニア=ヘルツェゴヴィナにはセルビア人が多数住んでおり、オーストリア=ハンガリーのその他の地域にもセルビア人が存在していました。セルビア民族主義者たちは、こうしたセルビア国外の同胞を解放し、すべてのセルビア人を結集した国家の創設という目標を掲げていました。
二度のバルカン戦争(第一次1912年10月-1913年5月、第二次1913年6月-8月)によって、オスマン帝国はバルカン半島から排除され、バルカン諸国の中でセルビアが勢力を拡大し、その領土と人口はかつての二倍となりました。オーストリア=ハンガリーにとって、セルビア民族主義が大きな脅威となったのです。

皇太子暗殺

1914年6月28日11時30分頃、ボスニアの首都サラエヴォにてオーストリア=ハンガリー皇太子夫妻がセルビア人学生に暗殺されました。近郊で行われた軍事演習の視察を終え、その日の朝、皇太子フランツ=フェルディナントと妻ゾフィーがサラエヴォの駅に到着しました。駅から、一行は車に分乗し、市庁舎に向かいます。この途中、車列に向かって手榴弾が投げ込まれる爆破事件が発生します。幸い皇太子夫妻に怪我はなく、2人は無事に市庁舎に到着しました。そこで市長の出迎えを受けた後、フェルディナントは予定を変更し、爆破による怪我人を見舞うために病院に立ち寄ることにしたと言われています。そして皇太子夫妻が乗る車が市庁舎を出て数分、ちょうどラテン橋を渡ろうとしたとき、ガヴリロ・プリンツィプが手にしたピストルで皇太子夫妻を撃ったのです。プリンツィプの放った銃弾は、それぞれフランツ=フェルディナントの首とゾフィーの腹部に命中し、2人とも搬送先の総督府官邸で息を引き取りました。
この暗殺を実行したグループは、通称「黒い手」と呼ばれる秘密組織のメンバーで、セルビア民族主義者でした。1908年の併合以来、ボスニア=ヘルツェゴヴィナではセルビア人による民族統一運動が高まりつつありました。ボスニア出身でまだ学生だったプリンツィプもそのような運動に参加していました。フランツ=フェルディナントのボスニア訪問を聞いたプリンツィプは暗殺計画を練り上げ、そのための仲間を募ります。さらに皇太子暗殺に必要な武器の調達や輸送には、セルビアの軍や役人が密かに関与していました。手榴弾による暗殺の失敗など、暗殺は事前の計画通りに行きませんでしたが、プリンツィプたちは皇太子の暗殺に成功しました。

写真:1910年のサラエヴォ
1910年のサラエヴォ(Rumpler,Eine Chance,S.562.)

写真:サラエヴォ市庁舎を出るフランツ=フェルディナント夫妻
サラエヴォ市庁舎を出るフランツ=フェルディナント夫妻(Rumpler,Eine Chance,S.569.)

写真:フランツ=フェルディナントが着用していた制服
フランツ=フェルディナントが着用していた制服(ウィーン軍事史博物館所蔵、石井大輔氏撮影)

写真:皇太子夫妻が乗っていた車
皇太子夫妻が乗っていた車(ウィーン軍事史博物館所蔵、石井大輔氏撮影)

皇太子死去のニュースは、すぐさまオーストリア=ハンガリー中に伝えられました。1914年6月29日発行の『ウィーン新聞』は、「予期せぬ残酷な不幸が皇帝家、帝国、国民を襲い、皆に大変なショックを与えた。フランツ=フェルディナント大公殿下とゾフィー大公妃殿下が本日(28日)午前、サラエヴォにて卑劣な銃弾の犠牲となられた」と伝えています。皇帝フランツ=ヨーゼフはバート・イシュルでこの悲報に接し、翌日朝6時にはウィーンへ発ちました。また同紙は、事件当日のウィーン市内の様子を次のように報じています。「この恐ろしき犯行に関するニュースは人々の間で瞬く間に広まったが、不確かな噂ばかりで、誰も正確なことを知らなかった。[中略]役所や新聞社には、問い合わせの電話が殺到し、カフェや酒場はこの恐ろしい話題で持ちきりだった。これらの場所や通りでは、見知らぬ者同士が集まって、興奮しながら議論し合う姿が見られた。」もちろん、皇太子死去のニュースは外国にも瞬く間に広まり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もドイツ北部の軍港キールで第一報を受けました。


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