本文
ドイツとオーストリア=ハンガリー
ドイツ帝国
ドイツは長らく神聖ローマ帝国やドイツ連邦として、諸州が緩やかに結びついた連合体でした。19世紀に入り、プロイセン王国が勢力を拡大していき、普墺戦争と普仏戦争という二つの戦争を経て、1871年にドイツ統一を果たしました。その領域は現在のドイツ国境を大きく越えて、現在のフランス、デンマーク、ポーランド、リトアニアの一部にも及んでいました。このプロイセン王国によるドイツ統一に尽力したのが、プロイセン王国首相であり、ドイツ帝国首相となったオットー・フォン・ビスマルクでした。彼は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(位1871-1888年)のもと国内の近代化を推し進め、各国のドイツに対する警戒心を解くために、対外的には協調路線をとります。これはプロイセン=ドイツへの復讐心に燃えるフランスを孤立させるためであり、オーストリア=ハンガリーやイタリアと三国同盟(1882年)を結びました。
経済面において、ドイツは産業革命に成功し、鉄鋼生産などではイギリスを凌ぐほどでした。しかし、海外進出や植民地獲得という面においては、イギリスやフランスの後塵を拝していました。ドイツの国際的な地位を押し上げるために、第三代ドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世(位1888-1918年)はビスマルクを排し、積極的な対外膨張政策に転じます。ヴィルヘルム2世は、2度のモロッコ事件(1905年と1911年)においてフランスと鋭く対立し、極東では拠点となる膠州湾を租借地とし、植民都市青島(チンタオ)の開発を行いました。こうしたヴィルヘルムの対外政策は、イギリス、フランス、ロシアといった協商国との対立を招いていきました。
第一次世界大戦前夜のヨーロッパ(大津留「ハプスブルク史研究入門」、巻末地図(全体図7))
オーストリア=ハンガリー帝国
当時のオーストリア=ハンガリー帝国の領域は、現在のオーストリアとハンガリーだけではなく、チェコやスロヴァキア、そしてクロアチア、スロヴェニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナといった旧ユーゴスラビア地域、さらにイタリアやポーランドの一部にも広がっていました。ハプスブルク家のルドルフ1世(位1273-1291年)がオーストリアを手に入れて以来、ハプスブルク家領はチェコやハンガリーなどの周辺地域に拡大していきました。17世紀末にはオスマン帝国を退け、ハプスブルク帝国は中央ヨーロッパの大国となりました。この帝国には多様な領域が含まれており、多様な民族が住んでいました。
この帝国は1867年以降、オーストリアとハンガリーがそれぞれ独自に政府を持ちながらも、皇帝フランツ=ヨーゼフ(位1848-1916年)を共通の君主とする独特な国家体制(アウスグライヒ体制)をとっていました。ただ、外交、軍事、財政は共通業務とされ、それぞれを所管する共通大臣が置かれました。そして帝国全土から徴兵された共通軍にも、帝国内の民族の多様さが反映されていましいた。
アウスグライヒ体制(大津留「青野原俘虜収容所の世界」、20頁)
言語によるオーストリア=ハンガリーの民族分布図(大津留「青野原俘虜収容所の世界」、19頁)