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青野原俘虜収容所とは
青野原俘虜収容所は、第一次世界大戦時にドイツとオーストリア=ハンガリーの捕虜(当時の表現では俘虜)を収容するために作られた収容所の一つで、現在の兵庫県加西市青野原町にあたる場所にありました。青野原は1889年に軍馬育成場とされ、その後は陸軍の演習場として使われていました。この演習場内にあった高岡廠舎の南側に俘虜収容所が設置されていました。
第一次世界大戦において、日本はドイツの租借地であった中国の青島(チンタオ)を攻め、そこに駐留していたドイツとオーストリア=ハンガリーの兵士合わせて4,689名を捕虜としました。彼らは、当初全国12か所に作られた収容所に分かれて収容されていましたが、1915年9月以降、専用施設を備えた本格的な収容所に移されました。最終的に俘虜収容所は全国6か所(習志野<千葉県>、名古屋<愛知県>、青野原<兵庫県>、板東<徳島県>、似島<広島県>、久留米<福岡県>)に集約されました。青野原俘虜収容所には、最も多い時で500名弱の捕虜が収容され、中でもオーストリア=ハンガリー兵の多くが収容されていました。捕虜たちの多くは帰国の時(1920年1月頃)までの期間を青野原の地で過ごしていました。
青野原俘虜収容所は長く忘れられた歴史でしたが、様々な調査によって少しずつ明らかになってきました。その端緒となったのが、父が板東に収容されていた捕虜だったディルク・ファン・デア・ラーン氏から「ケルステン日記」の提供を受けたことです。ラーン氏が集めた写真や資料、ドイツ在住の研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏所蔵の写真も加え、収容所における捕虜たちの暮らしぶりが初めて明らかにされました。その後行われた現地調査で、青野原俘虜収容所建物の棟札が偶然にも発見されることになります。
神戸大学と小野市や加西市が協力して調査活動を行い、地元に残された捕虜ゆかりの品も提供されるようになり、青野原俘虜収容所に関する展示会を開催するに至りました。2008年のウィーンでの「里帰り」展示会もその一つです。その過程でドイツ在住のディーター・リンケ氏から、青野原収容所の捕虜だったハンクシュタインが遺した写真の提供を受けることとなり、その300枚を超える写真によって青野原俘虜収容所の様子やそこで暮らす捕虜たちを実際に目にすることができました。さらに、それらの写真が映し出すものは収容所の外の世界にも及んでいました。ここでご紹介する写真は、特に表記がない限りディーター・リンケ氏所蔵のものです。