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播磨地域の随所に建立された大歳神社。
その祭神、「大歳神」が播磨国風土記で消されたのは何故か、その謎に迫ります。
令和4年度は11月から4か月連続で開催します。
第1回:11月10日
第2回:12月8日※
第3回:1月12日
第4回:2月9日
時間:いずれも毎月第二木曜日、午後1時30分から午後3時30分(受付は午後1時から)
場所:加西市民会館文化ホール(※第2回のみ市民会館3階小ホール)
定員:399人(小ホールは150人)
参加費:各回500円(申し込み不要)
『播磨国風土記』を初めて読んだひとは、このような古代の生き生きとした地誌が残されている、旧「播磨国」地域に住んでおられる人々の幸せを羨ましく感じていることでしょう。遠く、四国の伊予国に生まれ育った私も、そのひとりです。ちょっとした山・川・泉から集落・街道のひとすじについてまで、その飛鳥時代の姿をはっきりと思い浮かべることができるのです。その「播磨国」の成立と発展に力を尽くした最初の集団が、のちに伊予国久米郡に遷り住んだ久米族であることを風土記の記述から読み知ったとき、私は大いなる驚きと喜びを感じました。久米郡は少年のころから、それと知らずに歩き回った土地だったからです。『播磨国風土記』はその時から私にとっても最も大切で親しい書物になりました。
旧「播磨国」地域、ことに東播磨から北播磨を歩き回るうちに、私はひとつ不思議の念にとらえられました。あちらこちらにびっしりと大歳神社があること、それにもかかわらず、大歳神社も祭神・大歳神も、風土記には全く出てこないのです。大歳神は推定、紀元前1世紀に生きた英雄の反映であり、「播磨国」の最初の中核となった「鴨国」の成立もまた、その頃と考えられます。ところが、それから八百年ほどのち、『播磨国風土記』が成立した当時に、大歳神について語ることは一種の禁忌であったと考えざるをえません。
大歳神の存在とその業績について語ることはなぜ禁忌となったのか、その真実の記憶はなぜ矮小化され、ひとびとの脳裏から忘れ去られるようにとさえ仕向けられたのか。その理由をつきとめ、あるべきほんらいの姿に大歳神を解き放つ試みをまとめてお話しします。
主要な史書では大歳神は「古事記」に登場します。ところがなぜか表記は「大年神」。その事績は全く記されていません。しかし、その御子神たちはいまも宮中で祀られる守護神であり、神社に祭られては天皇が親しく行幸を繰り返した最高位の神々です。平安時代の初期に成立した「先代旧事本紀」では大歳神は重要な神であり、また律令施行の細則を定めた「延喜式」では日本の各地に「大歳神社」の存在が明記されています。
主要な史書ではまず「日本書紀」。大歳神はまったく登場しませんが、代替の神として「五十猛神」が登場します。次に『播磨国風土記』では「阿菩大神」「伊和大神」が、その代替の神であると推定されます。
推定・鎌倉時代に成立した「倭姫世紀」では大歳神は「伊勢の穀物神」として登場し、その考えは日本全国に広がります。近世後期成立の「古事記伝」(本居宣長)は、その考えを念押ししました。
後に大和王権の祖神として三輪山の大物主神となり、またさらに猿田彦神の後をついで太陽神となり、「天照大神」が新たに創出されてその地位を追われたと考えられます。
光田和伸氏
国文学者。愛媛県松山市生まれ。元国際日本文化センター准教授。専門は比較文化・比較文学。主に和歌、連歌、俳諧を研究。著書に『恋の隠し方-兼好と「徒然草」-』、『芭蕉めざめる』(ともに青草書房)。