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中野城跡(なかのじょうあと)

1.はじめに

中野城跡は、下里川と万願寺川が合流する地点よりやや上流の万願寺川西岸の中野町に所在します。中野城は金釣瓶城(かなつるべじょう)城主で中村小四郎助直の家臣の小谷与次(よじ)の居館であったとする説などがあり、中世の構居跡(かまいあと)と考えられる伝承地ですが、くわしいことはよくわかっていません。

中野城跡と周辺の遺跡位置図


1.中野城跡 2.南上山遺跡 3.中条垣内遺跡 4.針田遺跡 5.上灰田遺跡
6.宮ノ後遺跡 7.網引市場遺跡 8.蛭ヶ池ノ尻遺跡 9.流尾遺跡 10.堀山古墳群
11.状覚山古墳群 12.堀山遺跡 13.周遍寺山墳墓群 14.糠塚古墳群 15.八寸山墳墓群

嘉吉(かきつ)の乱(1441年)により、主家の赤松家を失った遺臣らは吉野に潜入しました。小谷与次は僧に化け、言葉巧みに南朝(なんちょう)方に取り入り、「自分は善防山城(ぜんぼうさんじょう)城主の赤松則繁(のりしげ)の子である。南朝方の手を借りて幕府を討ちたい」としてうまく召し抱えられました。
やがて与次の手引きにより、赤松一党は吉野御所(ごしょ)を襲い、皇子の首と勾玉(まがたま)をうばって逃げ帰りました。与次の郷里中村(中野)で御首を葬ったのが清慶寺(せいけいじ)の南帝塚(なんていづか)といわれています。
平成16年度に特定環境保全公共下水道事業に先立ち、加西市教育委員会が発掘調査を実施しました。調査の結果、その規模約64,000平方メートルの中世の集落跡であることわかりましたが、構居跡に関連する明確な遺構は発見されませんでした。

(写真:調査地位置図)

2.調査の目的

兵庫県北播磨県民局が実施する国道372号線歩道建設事業予定地内には中野城跡が所在することから、遺跡の取り扱いについて兵庫県教育委員会の指導のもと、加西市教育委員会と北播磨県民局の二者で協議を実施しました。協議の結果、工事計画の変更は不可能で、遺跡の現状保存は困難と判断され、工事によって遺構が削平される箇所について平成21・22年度に第2・3次発掘調査を実施し、記録保存することになりました。

(写真:調査地遠景)


3.調査の成果

調査の対象となった範囲は、歩道建設工事地区内の幅約3メートル、長さ約80メートルの約230平方メートルです。
確認された遺構は、竪穴住居跡・溝跡・土坑・柱穴などです。

竪穴住居跡01

平面の形は一辺約3.5メートルの隅丸方形で、後世の削平が著しく壁溝(へきこう)しか残っていませんでした。

竪穴住居跡02

平面の形は一辺約5メートルの隅丸方形で、後世の削平が著しく壁溝しかのこっていませんでした。
竪穴住居02の方が竪穴住居01より新しく、出土遺物から弥生時代中期のものと推定されます。


(写真左:竪穴住居01・02)
(写真右:竪穴住居03)

竪穴住居跡03

平面の形は隅丸方形と推定されますが、その規模については調査範囲が狭くてよくわかりませんでした。後世の削平が著しく壁溝しか残っていませんでした。竪穴住居01・02と同じく弥生時代のものと推定されます。

溝01・02

幅約1メートル、深さ約0.2メートルの南北溝で、埋土から土師器、須恵器杯や甕が出土したことから古墳時代に機能していた溝と考えられます。


(写真左:溝01・02)
(写真右:柱穴)

柱穴

柱穴は、掘方(ほりかた)の径0.2〜0.5メートル、柱痕の径0.15〜0.3メートル、深さ0.2〜0.4メートルと小規模のものばかりで、大型の建物が建設されていなかったようです。出土遺物から古墳時代後期から中世のものと推定されます。

4.まとめ

今回の調査で、中野城跡は、弥生時代から中世に営まれた集落跡であることがわかりました。しかし、中野城跡に関連する遺構・遺物については発見されませんでした。

参考文献:
『加西郡誌』加西郡教育会 昭和4年
『加西のふるさと散歩』加西市教育委員会 平成3年

問合先 教育委員会 生涯学習課 市史文化財係
TEL:0790-42-8775 FAX:0790-43-1803 mail:shogai@city.kasai.lg.jp

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