TOP観光文化財発掘情報>村前遺跡

村前遺跡

はじめに

村前遺跡は、平成5年に行われた県営ほ場整備事業にともなう埋蔵文化財確認調査によって発見されました。
遺跡範囲は約2万平方メートルで、弥生時代から鎌倉時代まで断続的に営まれた大規模な集落跡です。
今までの調査では、弥生時代の竪穴住居、土坑(どこう 弥生土器やごみを捨てた穴)、奈良時代の倉庫跡と考えられる掘立柱建物19棟、土坑(どこう 須恵器・土師器・瓦・ごみを捨てた穴)、平安〜鎌倉時代の掘立柱建物30棟以上、土坑(どこう 須恵器・土師器・瓦・ごみを捨てた穴)などが発見されました。
今回の調査は市道西谷・坂元線道路改良工事実施に伴い、約2,500平方メートルの発掘調査を平成19年11月5日〜平成20年1月30日に実施しました。

周辺の遺跡位置図

遺跡の立地と周辺の遺跡

村前遺跡は、加西市西上野町に所在し、下里川によって形成された自然堤防上の水田下にあります。
昔の人々は比較的湿気の少なく地盤のしっかりした尾根筋部に家を建て、湿気が多い谷筋部には家を建てずに水田を作るようにしていたようです。というのは、谷筋部は湿気が多く家の柱など腐りやすいからです。

周辺の遺跡

村前遺跡の周辺にもたくさんの遺跡があります。その中でも主要な遺跡を以下に紹介します。

女鹿山古墳群

村前遺跡のすぐ南には女鹿山群集墳があります。
女鹿山古墳は全長45mの前方後円墳と推定されていますが、その墳形及び築造時期については調査が実施されていないので断定できません。他の21基の古墳は円墳か方墳で、その規模は径約10mないしは一辺約10mと小型で低墳丘のものばかりです。
築造時期は、古墳時代中期から後期と推定されています。
平成14年に発掘調査が実施された6号墳は一辺約11.6m、周溝幅2.6m、深さ0.2〜0.5mでの古墳時代中期に築造された方墳であることがわかりました。
また、21号墳は一辺約9m、周溝幅2m、深さ0.2mで古墳時代中期に築造された方墳であることがわかりました。
いずれの古墳も墳丘の削平が著しく埋葬主体についてはわかりませんでした。

6号墳全景 21号墳全景

寺山古墳群

女鹿山古墳群のすぐ南に寺山群集墳があります。
寺山10号墳は全長24mの古墳時代後期の前方後円墳と推定されていますが、その墳形及び築造時期については調査が実施されていないので断定できません。他の9基の古墳は円墳で、その規模は径約10mと小型のものばかりです。
平成14年に発掘調査が実施された7号墳は一辺約10m、周溝幅2〜3m、深さ0.2〜0.4mで古墳時代後期に築造された円墳であることがわかりましたが、埋葬主体についてはよくわかりませんでした。
また、8号墳は全長約20mの前方後円墳と推定されていましたが、円墳ないしは方墳の可能性もあり断定するには至りませんでした。
埋葬主体は玄室長約4m、玄室幅約1.4mの横穴式石室で、古墳時代後期の須恵器や埴輪が出土しました。

8号墳石室全景 8号墳石室内遺物出土状況

北ノ下遺跡

村前遺跡のすぐ南東には、北ノ下遺跡があります。
北ノ下遺跡は、平成4年に行われた県営ほ場整備事業にともなう埋蔵文化財確認調査によって発見されました。
遺跡範囲は約1万平方メートルで、奈良時代から鎌倉時代まで継続的に営まれた集落跡です。
今までの調査では、奈良時代の掘立柱建物2棟、平安〜鎌倉時代の掘立柱建物3棟、柵、井戸、土坑(どこう 須恵器・土師器・瓦・ごみを捨てた穴)などが発見されました。
遺物は、遺物包含層や遺構から多くの土師器、須恵器、墨書土器、布目瓦などが出土しました。
村前遺跡や吸谷廃寺と密接な関係にある集落と考えられます。

吸谷廃寺

村前遺跡のすぐ東には、飛鳥時代に創建された吸谷廃寺があります。その範囲は、吸谷廃寺は吸谷町の慈眼寺境内付近と考えられ、塔心礎をはじめとする礎石が多く散在しています。
今までの発掘調査では僧坊跡と考えられる掘立柱建物や幡幢を立てるための支柱と考えられる柱穴が発見されています。

村前遺跡の発掘調査概要

遺 構

今回の調査で発見された遺構は、弥生時代の溝2条、奈良時代の掘立柱建物5棟・土坑1基・溝1条、平安〜鎌倉時代の掘立柱建物7棟以上です。
特に、奈良時代の掘立柱建物の大半は、柱間が2×2間、3×3間の小規模で、平面形が正方形に近いことから、米を収納する倉庫ではないかと考えられます。

2地区全景 2地区倉庫群

1地区全景 3地区全景

奈良時代の土坑は、一辺約3m、深さ約0.5mで、埋土から多量の土師器や須恵器が出土しました。

土器出土状況 土坑発掘状況

遺 物

遺物は、遺物包含層や遺構から多くの弥生土器、土師器、須恵器、布目瓦などが出土しました。
特に須恵器の円面硯・墨書土器や土錘が出土したことは注目に値します。

まとめ

村前遺跡に初めて集落が展開するのは、弥生時代後期頃と考えられます。人々は稲作を主な生業とし、竪穴住居に住んでいました、古墳時代前期〜中期の遺構や遺物は、今までの調査では発見されていません。
女鹿山群集墳が築造されたことにより人々は他の地域に移住したのでしょうか。
村前遺跡で再び集落が営まれるようになるのは飛鳥時代になってからです。
特に奈良時代前半期の倉庫と推定される掘立柱建物が今回の調査で5棟、従来までの調査で発見されたものも含めると20棟以上と非常に多いことが特色としてあげられます。
村前遺跡や吸谷廃寺の所在するこのあたりは、奈良時代のはじめには『播磨国風土記』記載の賀茂郡の修布里(すふのさと)と呼ばれていたと推定されています。
今回の調査結果から、飛鳥時代にこの地に吸谷廃寺を創建した豪族は、里人達が税として納めた米などを村前遺跡の倉庫群に収納していたことが判明しました。
豪族の居館の所在やその氏姓についてはあまりわかっていませんが、今後の調査の進展によって、解明されることでしょう。

問合先 教育委員会 生涯学習課 市史文化財係
TEL:0790-42-8775 FAX:0790-43-1803 mail:shogai@city.kasai.lg.jp

Page Top