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第5号 文化財(建造物)編発刊

加西市史編さん委員会だより

第3回配本として『加西市史』第五巻文化財(建造物)が発刊となりました。  この建造物編は、多くの点で注目すべき内容をもつものと自負しています。また、今までに全国で発刊された市町村史の中で、建造物にこれだけのページ数を投入したものは数少ないだろうと思います。おそらく密度において比肩するものはないのではないでしょうか。

はじめに 〜地域の文化財とは〜

加西市は古来京の都につながり、多くの人々が行き交う要路に位置していました。また豊かな土地柄を反映して栄え、歴史的な遺産も多く残されています。加西地域の文化の発達・成熟を示す多くのものが、そこに住む人々の暮らしや心の中で様々なかたちで生きてきました。前編(美術・工芸編)も加西のそうした歴史をつづったものです。

本巻でも、一乗寺などの名刹はもちろんのこと、市内にある多彩な建築文化、あるいは建築からみた歴史をとらえるため、できる限り多くの物件について調査を行い、記述することに努めました。市内には誇るべき多くのもの、また人々の暮らしや信仰をうかがわせるものがあります。本書は、こうした加西の建造物を掘り起こし、確認をおこなうとともに、日常のなかに埋もれてしまい気づくことの少ない市民の文化的財産を今一度ふりかえってもらうことを目標の一つにおきました。

現在、地方分権の時代と言われていますが、そこでも地方の特性ということが声高に叫ばれています。文化財はその地域の自己同一性(アイデンティティー)の証、あるいは存在証明にほかならないと思われます。人々はこれら文化財に触れることで、自らの位置を確認する作業を知らず知らずのうちに繰り返しています。地域の文化財を触れることが、 (1)過去との対話の中に、 (2)身近なものをよりよく知ることことにつながり  加西市民のアイデンティティーを求める旅の一つの道しるべとなれば幸いです。地域の思い出ということですが、それは個人の思い出と同じで、よいこと、普通のこと、悪いことがあって、その全部が地域の形成にとって重要なことだったと思われます。

以下では、本書に掲載された建造物のいくつかを取り上げ、紹介したいと思います。

委員長 福永 文夫

 

寺社建築とその景観

■北条住吉神社と酒見寺の景観

加西市中心部の市街地は住吉神社と酒見寺の門前町、市場町として形成されてきました。昔の町屋は数を減らしていますが、地割りは江戸時代とあまり変わっておらず、今も往時の面影を伝えています。そして、かつて住吉神社を管理した酒見寺が現在も隣接しています。江戸時代には、神社と寺院は深い関係にあり、神社を僧侶が管理し、寺院も隣接しているのが普通でした。しかし、ほとんどの場合は、どちらかが中心で大きく、他方は付属物であるような構成でした。寺社ともに巨大で、並立している例は少ないといえます。そして、明治の神仏分離を経て、なおその両者が生き残っている事例はさらに稀です。摂津住吉大社が寺社ともに大きかった事例ですが、神宮寺の方は廃寺となり、無くなりました。また奈良の春日大社では、興福寺が一時は無くなりかけました。

酒見寺は指定文化財の建物の他にも、本堂、引声堂を始め江戸時代の立派な建物を擁する大きな寺院です。一方の住吉神社は指定文化財こそありませんが、この地域最大の祭礼である節句祭の中心であり、次に述べる重要な本殿があります。このような寺社と町の景観は全国的にも珍しいもので、貴重な景観と言えます。

■北条住吉神社本殿

住吉神社 本殿群

住吉神社 本殿群

住吉神社の本殿は切妻造、妻入の独特な形式で、有名な摂津の住吉大社の形式に類似しています。住吉大社の形式は住吉造といい、摂津と筑前住吉神社(博多)にしかありません。北条住吉神社の形態は住吉造とはいえませんが、その変形であることは確かで、古代にこのあたりが摂津住吉社の神領であったことと関係があると思います。北条住吉神社の本殿は神社本殿の中では巨大なもので、それが三棟も並立していることも特徴です。このような本殿形式と全体の構成も注目すべきものと思います。建立年代は嘉永五年(一八五二)です。

■池上日吉神社本殿

日吉神社 本殿

日吉神社 本殿

伝承はいろいろありますが、現在の神社の性格の基本は中世の荘園鎮守社と考えられます。そして荘園の結束の象徴である日吉七社立会神事が現在も行われており、そこでの神事、祭礼組織ともこの地の来歴を物語る重要な歴史の史料です。このような荘園制以来の豊かな文化の蓄積のなかで、現在の社殿が作られています。本殿は七間社流造という全国的にみても数少ない大規模なもので、建立年代は安政三年(一八五六)です。七間社というのは、正面の柱間が七間あって、神様の部屋が七室並んでいる本殿のことです。細部は、幕末らしい精緻な装飾が随所に見られます。この七間という数字の意味は重要です。ひとつは全国の日吉社の根本である滋賀県の日吉大社において上位七社が重要視されたことが影響しています。もうひとつは、その七社を荘園内の村落の神社で編成し、祭礼時にそこから神様を乗せた神輿が、池上日吉神社に集まるように祭礼が構成されたことです。そして、各集落から集まった七基の神輿をこの本殿に入れるという、祭礼史上でも珍しい行事が行われていました。これは、荘園鎮守社の祭礼全般を考える上で大変重要な事例であり、建築と祭礼の関係を考える上でも興味がつきません。

■二間社流造の本殿

東横田大歳神社 本殿

東横田大歳神社 本殿

加西市西部の東横田大歳神社と福居町若宮神社の本殿はともに二間社流造です。二間社流造というのは、本殿正面の柱が三本あって柱間が二間、つまり正面から参拝すると中央に柱がある作り方のことです。通常は一間、三間、五間と奇数柱間にして、中央には柱が来ないように作りますから、これは珍しい形式です。兵庫県下で現在知られているのは、この二棟を含めて七棟であり、三棟が国指定重要文化財、一棟が県指定文化財となっています。特に東横田大歳神社本殿は、棟札によって慶安三年(一六五〇)の建立であることが明らかで、国指定の中島神社本殿(豊岡市、一四二八年)に次いで古く、保存状態も良好な建物です。

■一乗寺と奥山寺の庫裏

一乗寺地蔵院 庫裏内部

一乗寺地蔵院 庫裏内部

一乗寺は、国宝三重塔ほか国指定文化財の宝庫ですが、今回の市史調査では、江戸時代の建物を重視して調査しました。中でも現在も御住職が住まわれている地蔵院の庫裏は立派な建物です。桁行約二〇m、梁間約一一mの規模で、南正面中央に式台玄関をもち、その上手に龍の間、本座敷があり、縁側には幅一間の畳廊下が付きます。屋根は茅葺(鉄板覆い)で、小屋組も古いものが残っています。建立年代は一八世紀中期以前と推定されます。

奥山寺地蔵院 庫裏・客殿

奥山寺地蔵院 庫裏・客殿

奥山寺地蔵院の庫裏は、一乗寺ほど古くはありませんが、参道からみた景色が素晴らしい。この建物は、南の客殿と北の庫裏が結合した建物で、全長は三四mに達します。建立年代は天保十五年(一八四四)です。一乗寺にしても奥山寺にしても、かつて寺院を支えていた院坊が減り、全体の風景が姿を変えています。本堂や塔などの中心建物だけが寺院なのではなくて、このような寺を支えるお坊さん達の生活空間も含んだ全体が中世以来の寺院景観なのです。

■奥山寺本堂と神田姓の大工

奥山寺 本堂外陣

奥山寺 本堂外陣

奥山寺本堂は、市史執筆のために調査した建物の中で、最初に見た時の衝撃が最も大きかった建物です。何ゆえにそんなに驚いたのかというと、その独特の細部意匠です。本堂外陣の天井には梁(虹梁といいます)が前後にかかっていますが、これに彫られた模様(絵様といいます)が非常に変わっています。また、中備が独特の蝙蝠のような形で、これらは始めて見る形でした。中備というのは、柱の上に組物が置かれますが、柱間の中間、組物と組物の間に置かれる飾りのことです。

虹梁絵様は、その後調査が進展する中で類例が幾つか見つかり、現在も宮大工、工務店として活躍している大工村の神田氏の祖先によるものと考えられます。中備の方は類例がありません。これらの大胆で斬新な細部意匠と、虹梁、海老虹梁からなる架構によって、この外陣の空間は加西市の寺院建築の代表的なものとなっています。建立年代は、直接の史料はありませんが、寺蔵記録により貞享四年(一六八七)と考えられます。

当時活躍した神田姓の大工の中で、重要な建物を手がけたのは神田作左衛門○○(○は名前)を名乗る大工です。名前は「実」の字を冠することが多く、実正は高峯神社本殿(貞享二年一六八五)、実政は普光寺本堂(元禄十三年一七〇〇、現存せず)、実清は、奥山寺多宝塔(宝永六年一七〇九)、また酒見寺本堂(元禄二年一六八九)の大工名も作左衛門です。作左衛門以外にも神田姓の大工は多く、一族を形成して江戸時代を通じてこの近辺で多くの建物を建てました。

神田姓の大工は奥山寺本堂でみられるような一種独特の流麗な細部意匠を得意としているので、史料的裏付けはなくても、神田氏の作であろうと推定される建物がほかにいくつかあります。

加西市に残る農家建築

加西市域では本格的な民家調査が行われていなかったので、間取、小屋組などの特色を見出すよう努力しました。  農家の間取は四間取りが標準であること、「田」の字型の他に表側と裏側で室境がずれるものがあることが分かりました。建設年代が判明した家はありませんが、一八世紀にさかのぼると推定される家が四棟あります。

茅葺農家の小屋構造はほとんど扠首組で、束を併用するものが一棟ありました。天井は梁組の上に簀の子天井、または板天井を作るもので、大和天井と呼ばれています。表側上手の座敷は棹縁天井を張る場合が多いですが、大和天井のものも何棟かありました。 部屋の呼称で数が多かったのは、表側上手がオクノマ、表側下手がクチノマ、裏側上手がナンドです。裏側下手つまり土間沿い奥の室の名称は変化が多く、無いという家が何軒もありました。この室は、全国的にはダイドコと呼ぶ例が多いのですが、加西市域ではこの室には名称が無い、というのが実状だと思います。このことも興味深く思いました。

一部地域には三間取があることも判明しました。これは、国の重要文化財になっている箱木家住宅(神戸市)、同じく古井家住宅(宍粟郡安富町)の間取に類似するものです。市内の三間取民家は、それほど古いものではありませんが、この地域の一段と古い民家形式を考える上で重要な資料です。

■山下家住宅

山下家住宅 イマ

山下家住宅 イマ

窪田町の山下家は慶長年間(一五九六〜一六一五)から大庄屋を勤めたという家です。大庄屋というのは、各村に一軒おかれる一般の庄屋の上にたつ庄屋のことです。江戸時代の社会は一般に士農工商という身分制度で説明されますが、農民でも大庄屋となると下級の武士よりはよほど大きな家に住み、豊かでした。

山下家もはじめて内部を見せて頂いたときには驚きました。間取は表側に三室、裏側に三室が並びます。裏側の土間側に特に大きい十五畳の間があって、見上げると曲がりくねった黒々とした長大な梁が縦横に飛び交っています。山下家では表側の二室でも同じような大和天井です。十五畳の広い部屋も他の家には無いものですし、その豪放な梁組は見事なものです。建設年代も古く、一八世紀にさかのぼると推定していますが、小屋組が明治時代のものであることが惜しまれます。

近代の遺産

■旧北条町駅

旧北条町駅

旧北条町駅

旧北条町駅は、加西市で最もよく知られた建物だったでしょう。この建物は駅前再開発整備によって二〇〇一年に取り壊されました。建設年代は判明しませんでしたが、大正四年に播州鉄道の北条・粟生間が開通した頃の建物と推定されます。本体は簡素な洋風、桟瓦葺の建物で、軒先の飾りが特徴でした。最も目立つ正面の玄関ポーチは和風の勝った意匠で、全体としては洋風と和風が混じり、様式的混乱が見られます。加西市の近代を八十年以上見守ってきた近代の遺産でした。市史には写真とともに実測図を掲載しています。

■公民館

繁陽町公民館

繁陽町公民館

公民館は、類型的な形式をもっていて、旧北条町駅と共通する意匠だと思います。写真は昭和十一年頃に建てられた繁陽町公民館です。外観は洋風、下見板張り、屋根の棟の両端にはフィニアル(頂華)があります。正面に和風の玄関があり、内部も和風です。公民館建築のなかで少ししゃれた建物です。

■三洋電機北条工場

三洋電機 北条工場

三洋電機 北条工場

加西市の近代を語るときに欠かせない建物がこの工場です。北条町駅の西方に広大な敷地を構える工場は、大正九年に播州紡績株式会社として誕生した加西市随一の規模を誇る紡績工場であり、煉瓦造の工場建築です。正確な建設年代は判明しません。大正九年頃の建物と推定しますが、その後も増改築されていると思います。

煉瓦造工場は、東西が七八m、南北が四五mの規模があります。屋根は木造トラス構造で、北側に採光窓をもついわゆるノコギリ屋根です。南側の西よりに長方形の塔が建っています。南西の一郭は記念館として昔の形で残されていますが、その他の大部分は内部を広く使うために、鉄骨の梁と柱を入れており、細かい間隔で立っていた木の柱を撤去したと考えられます。四周の煉瓦の壁面はよく残っており、ペンキが塗られたりしていますが、窓台をもつ窓や緩いアーチをもつ出入り口などが分かります。これだけの本格的な煉瓦造の建物は市内には他にありません。

■青野原ふ虜収容所

青野原俘虜収容所 便所

青野原俘虜収容所 便所

戦争関連の遺跡は、忌まわしい記憶の記念物という意味で「負の遺産」とも呼ばれています。世界遺産に登録された広島原爆ドームがその例です。青野原俘虜収容所も戦争遺跡ではありますが、地元住民との交流の事実も語り伝えられており、逆に国際交流の一面としてとらえることも可能なようです。

青野原には第一次世界大戦におけるドイツ、オーストリア、ハンガリーの捕虜四七七人を収容した俘虜収容所がありました。二〇〇二年に隣市の小野市史関連の調査によって、真鍋家の倉庫から発見された棟札には、大正四年九月に建てられた俘虜収容所の建物であることが記されていました。真鍋家倉庫は残念ながら取り壊されましたが、部材は保存されています。また、近くには便所、風呂、井戸が残っています。近隣を調査したところ、分割されて払い下げられた収容所の兵舎がまだ残存していることも分かりました。

同様の収容所は全国に六か所建設されました。そのひとつ板東(徳島県鳴門市)の収容所では、捕虜による自主的運営が行われ、文化活動が盛んでした。ドイツ兵により、日本で最初にベートーベンの第九交響曲が演奏されたことでも有名です。鳴門市はドイツ兵と地元との交流を顕彰して、昭和四十七年にドイツ館を建設し、平成五年には新しいドイツ館を建設しました。また、習志野収容所があった習志野市(千葉県)では史料を収集して平成十二年に展覧会を開きました。

しかし、建物が現存しているのは青野原だけです。そのような意味で、これらの建物は非常に重要な物であり、平成十四年七月にはドイツ領事館の総領事も視察に訪れています。是非とも、これからも残していくべき遺跡です。

文化財部会委員 黒田 龍二

 

編集後記

『加西市史・第五巻』文化財(建造物編)が完成いたしました。本巻には、寺社などの歴史的建造物のみならず、民家・庭園など身近なもの、旧北条駅など歴史的遺産も含まれています。加西市の文化的建造物の財産目録として、ご購入いただければ幸いです。

加西市史編さん委員会 委員長 福永文夫

問合先 教育委員会 生涯学習課 市史文化財係

TEL:0790-42-8775 FAX:0790-43-1803 mail:shogai@city.kasai.lg.jp

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