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第4号 文化財(美術・工芸)編発刊

加西市史編さん委員会だより

第2回配本として『加西市史』第四巻が発刊となりました。

今巻は、二巻ある文化財編のうちの一巻で、市内に数多く点在する文化財の中でも、仏像や絵画などの美術品や、梵鐘や鬼面のような工芸品を収録しています。本を読んでいただくと、今まで何気なく見ていた地元の文化財が、思いもよらないような価値を持っていたことに、きっと驚かれると思います。  皆さんもこの本を手に、先人の残した素晴らしい遺産を訪ねてみませんか。それでは、『加西市史』文化財(美術・工芸)編の中身を、少し覗いてみましょう。

仏像が語る法道仙人伝承

■一乗寺の金銅仏群と法道仙人

彫刻といえば白鳳時代から奈良時代にかけて制作された金銅仏が数多く残る一乗寺を外すことはできません。その一乗寺の彫刻と、一乗寺の開山の祖とされる法道仙人について紹介しましょう。

加西市ばかりでなく、兵庫県の彫刻の歴史を語る時、最初にあげなければいけないのが法華山一乗寺の数々の金銅仏です。これらは一乗寺の本堂の中にある宮殿内に秘仏として伝わった金銅仏など計七体で、白鳳期から奈良時代(七世紀後半〜八世紀後半)にかけての作品です。  こうした古代の金銅仏がまとまって伝わる例は全国的に見ても珍しく、京都や奈良、大阪を除けば那智山経塚(和歌山)出土の金銅仏群や、伯耆国大山寺(鳥取)の四体の金銅仏などがあるだけで、大変まれな例です。さらに一乗寺の金銅仏群は、一乗寺を開いたとされる法道仙人の伝承に彩られていることが特筆されます。

観音菩薩立像 一乗寺法道仙人

一乗寺 観音菩薩立像(左)、法道仙人(右)

こうした特殊な存在である金銅仏群や法道仙人については、これまでさまざまな角度から研究されてきましたが、具体的には明らかになっていません。しかし、『元亨釈書』や『峰相記』など古い史料にも、法道仙人は法華山を中心に活躍したと記され、加西市内やその近辺には法道仙人が開山したと伝える古寺が多いようです。

また法華山の近くには、一乗寺の金銅仏とほぼ同じ時代に作られたと考えられている三尊石仏(古法華)や、乎疑原神社の浮彫の五尊石仏があり、乎疑原神社の石仏との関連が指摘される繁昌廃寺といった、白鳳時代の寺院跡が点在しています。

また法華山と接する加古川市内には、聖徳太子の師とされる恵便の開山と伝える名刹鶴林寺があり、やはり白鳳期を代表する金銅仏(観音菩薩立像)が伝わっています。こうした法華山を取りまく文化史的な環境を考えると、一乗寺の金銅仏群のもっている意義は大きく、法道仙人が法華山を開創したという説話も単なる言い伝えとして片付けるわけにはいきません。

威風堂々山頂の阿弥陀様

■周遍寺理智院の阿弥陀如来坐像

今回の調査では平安時代(八世紀末〜十二世紀末)に制作された仏像も何体か確認できました。その数は二十三件、二十六体にのぼり、破損している仏像も加えるとさらにその数は増えます。ただ、平安前期から後期への過渡期にあたる時期に制作された周遍寺理智院(網引町)の「阿弥陀如来坐像」を除くと、ほとんど全ての遺品が十一〜十二世紀の、いわゆる平安後期に制作されたものとなります。 この中から周遍寺理智院の「阿弥陀如来坐像」を紹介しましょう。木造で、像高は五二センチメートル、小ぶりですが美しい仏像です。

阿弥陀如来坐像 周遍寺理智院

阿弥陀如来坐像 周遍寺理智院

網引町の経ノ尾山の山腹に、法道仙人の開創として『峰相記』にも記載される周遍寺が建っています。この周遍寺の山頂の理智院開山堂に阿弥陀如来坐像が祀られています。定印という両の手を重ね合わす印を結んでいて、江戸時代に作られた台座上に結跏趺坐といって両足を組んだように坐っています。

この度の調査で初めて存在がわかった仏像で、像高二尺に満たない小さな仏像ながら、堂々たる風格を備えています。頭部のみわずかに前に傾げますが、背筋はまっすぐに伸び、抜群の安定感をみせます。正面からみるとやや華奢に思えますが、斜めや側面から見ると量感が的確に表現されていて、小さな像とは思えない迫力をもっています。また幅の広い鼻と厚めの唇を持ち、両目は吊り上っていて、独特の暗い表情をしていますが、穏やかさも感じられ、顔は平安前期から後期へ移る頃の特徴を示しています。着衣のひだの表現にしても、翻波式という波形の連続的でリズミカルなひだを交えつつ太い縄状のひだを多く用いており、やはり十世紀の彫刻の特徴をよく示しています。小さな像だけに京都など中央からもたらされた像とも考えられ、十世紀後半の優れた作例であるといえます。

新発見!快慶の作風を継承

■小谷阿弥陀堂の阿弥陀如来立像

次に中世の遺品から北条町小谷の阿弥陀堂の「阿弥陀如来立像」を紹介しましょう。木造で像高は九七センチメートル、鎌倉時代前期の制作と考えられます。

小谷阿弥陀堂の本尊で、両手の第一指と第二指を捻じる来迎印という印を結ぶ阿弥陀如来です。ヒノキの寄木造で、頭部は右は耳の前、左は耳に少しかかったところで前後に割り、さらに後頭部で割っています。体部の矧ぎ目は明らかではありません。目は木を彫って作ってあります。体の部分は漆を塗った上に金箔を貼っており、衣の部分は黒漆が塗られています。足の裏にある台座に立たせるための足ホゾは、当初のものですが銘文はありません。両足先はかかとから出た二本の竹ホゾであわせています。なお、頭の後部分の材の欠けた部分から像の内部を少しみることができますが、なにか文字が書かれているかとか、納入物がはいっているかどうかとかいうことはわかりませんでした。

顔の表情は端正で、着衣のひだもきちんと整えられていて、鎌倉初期に活躍した仏師である快慶の作風に近いものがあります。右肩の衣を腹部にたくしこむことや、丸く頬に張りのある顔のつくりは、快慶の前半期、仏像に「巧匠〔梵字(アン)〕阿弥陀仏」と署名した頃にみられる特徴です。具体的に例をあげると、この像の顔のつくりは安阿弥陀仏と名乗っていた時に造立した八葉蓮華寺(大阪府)の阿弥陀像に大変よく似ています。しかし、腹部分の衣のひだの数が上下に十二あり(快慶の作例ではこの頃九〜十)、両脚の間にある縦のひだの間隔が、快慶のこの時期の作例と比べると狭く、また右脇から右腕にかけて垂れる衣の先が左手首の位置と同じ高さまで下がっていることなどは、快慶のこの時期の作例には見られない点です。おそらく快慶の弟子など快慶に極めて近い仏師が作ったものだろうと考えられます。造立年代は、快慶前期の作風を伝えていることから、十二世紀末〜十三世紀初頭でしょう。

阿弥陀如来立像 小谷阿弥陀堂

阿弥陀如来立像 小谷阿弥陀堂

右手の第三指の指先と後頭部の頭頂あたりが欠けていて、右足の外側面はなくなっています。後世に補われた部分は、肉髻珠・白毫・後頭部の螺髪の一部(右後頭部・左耳後方)、右脇から後下方に垂れる衣・光背・台座です。また体の部分の漆と金箔、衣の部分の黒漆も後世に補われたものです。これらの後補が行なわれた時期は江戸時代と思われます。

また、三尺の阿弥陀像は玉眼といって目の部分に玉をはめ込むのが普通ですが、この像は木を彫って作ってあります。快慶の作風をよく伝える三尺阿弥陀像の、新たに発見された作例として非常に注目される作品です。

釈迦入滅を鮮やかに彩る

■市内最古、奥山寺の涅槃図

市内には彫刻ばかりでなく、絵画にも優れた作品が残っています。一乗寺には国宝「天台高僧像及び聖徳太子像」十幅をはじめとして重要文化財「阿弥陀五尊像」や「五明王像」など平安・鎌倉時代の貴重な作品が残っています。

また、普光寺(河内町)や奥山寺(国正町)、常行院(山下西町)など市の周辺部の寺院には南北朝から室町時代頃の仏画が伝来します。この中から奥山寺にある室町時代の「涅槃図」一幅を紹介しましょう。絹地に彩色されており、大きさは縦一六〇×横九四センチメートル、室町時代の作品です。  「涅槃」というのはサンスクリット語の「ニルヴァーナ」の訳で、古くは煩悩の火が消された状態を意味していました。これが転じて、肉体の完全な消滅すなわち解脱の境地に入ること、具体的には釈迦の入滅(死)を指す語となりました。釈迦は八十歳の時、拘尸那城の郊外の跋提河のほとりで、菩薩衆、仏弟子等に見守られて入滅(死)を迎えます。この情景を描いたのが涅槃図で、毎年釈迦入滅の日とされる二月一五日に行なわれる涅槃会の本尊として用いられました。

涅槃図 奥山寺

涅槃図 奥山寺

この絵は絵画用の絹三枚を横に継いだ縦長の画面で、中央には右手を手枕にした釈迦如来が台の上に横たわり、その傍らに菩薩衆、比丘衆、天部、世俗の人物、動物が集まり、ある者は顔を伏せ、ある者は地に伏して釈迦の死を嘆き悲しんでいます。

釈迦の身体の色は金色で、輪郭線には朱い線が用いられています。釈迦の着衣は金箔を細かく切って作った文様で飾られています。周囲を取り巻く菩薩衆は身体の部分が白色で表され、所々に朱色のぼかしが入っています。身体部分をかたどる輪郭線は均一な太さの線が用いられ、天部や世俗の人物、動物の輪郭線は太さに違いのある墨の線が用いられています。

制作時期は、筆の運びや、彩色などから、室町時代後期と考えられます。加西市内には中世末期から近代にかけて制作された数多くの涅槃図が伝えられていますが、その中でも、常行院が所蔵する「涅槃図」と並ぶ最も古い作品です。

父と息子、才能の競演

■岡田米山人・半江筆、山水図襖絵

絵画作品は、仏教絵画ばかりではありません。加西には江戸時代後期の文人画家として有名な岡田米山人、半江親子の作品や、幕末から明治にかけての田能村直入と養子の小斎の作品などが残っています。このうち文化七年(一八一〇)に制作された岡田米山人、半江親子の「山水図襖絵」を紹介しましょう。

山水図襖絵

山水図襖絵

この山水図は、江戸時代後期に大坂で活躍した文人画家・岡田米山人と半江の父子による襖絵です。彼らの遺品の中では屈指の大きな作品であり、四枚の襖の表裏に父子四面ずつ描いています。剣坂村の庄屋安積喜平治の座敷用に作ったもので、米山人六十七歳、半江二十九歳の競作です。  岡田米山人は名を国、字を士彦といい、通称は米屋彦兵衛といいました。

元代の画家・黄公望の画風を慕って独学で絵を学び、豪放磊落な作品を残してます。この襖絵は画面の中央下の、向かい合う水亭の高士と漁舟の老人を主人公として据えながら、広くはるかな山水風景を描き出したもので、米山人独特の普通とは一風変わった表現がされています。絵の上方には米山人の豪快な書風による詩が書き付けられています。

詩文のところをよく見ると、どのように配置するか色々考えたのでしょう。意外なことに下書きの線がうっすらと残っているのがわかります。また画面右端下隅に遊印「林泉清趣」白文方印が捺されています。(遊印とは自分の名や号を刻んだ印以外に、お気に入りの詩句などを印としたもの。画面の片隅に捺すことが多い)題詩の左隣にも細字の文章がありますが、これは襖絵の制作から二十六年たった天保七年(一八三六)、初めて安積家を訪れた息子の半江が書いたもので、彼は懐かしさのあまり、父の描いた襖絵に「丙申の春月、剣坂に宿泊して懐かしさのあまりこれを記した」と書き付けています。そして勢い余ってか、印を天地逆さまに捺しています。

今も使われる現役の文化財「東光寺の祭礼面」

 最後に工芸の分野から、皆さんになじみが深い天保十三年(一八四二)に制作された東光寺の面を紹介しましょう。ご存知のようにこれらは県の民俗文化財にも指定されている東光寺の行事、田遊び・鬼会において現在も使用されている「現役」の工芸品です。

田遊び・鬼会は、東光寺において毎年一月八日の夜に行なわれる行事で、その起源は室町時代末までさかのぼると考えられています。現在これに使用されている面は、上・下万願寺の両村により一度に制作されたものです。

■田主、福太郎、福次郎の面

田遊び(農耕の開始にさきがけて、豊作を予祝するため、神社・境内で一年の稲作の作業過程を模擬的に演じる芸能的な儀礼)に用いる面です。田遊びにおいて種の選定を行なう田主役の面は老人の姿、田打ちや種蒔きを行なう福太郎、福次郎役の面は、田主と比べてやや年が若く表されています。福太郎と福次郎の面はよく似ていますが、笑っているかのように歯を見せるのが福太郎、口をあけてはいるが歯を見せないのが福次郎として区別されています。材料はいずれも桜材です。

■青鬼、赤鬼の面

鬼会(鬼追い)において用いられる面です。一本角の青鬼は雄鬼、二本角の赤鬼が雌鬼とされています。ともに桜材が使われており、当初の絵の具が僅かに残っています。

赤鬼面 東光寺田主面 東光寺

東光寺 赤鬼面(左)、田主面(右) 

おわりに

『加西市史』からいくつかの作品を紹介しましたが、これ以外にも実に多くの有形文化財が加西市には残っています。これはひとえにこれらを守り続けてきた人々の愛情と努力の賜物にほかなりません。そして、これらの文化財が次代の人々に末永く伝えられることを願ってやみません。

編集後記

本号は『加西市史』第四巻文化財(美術・工芸)編の特集号です。同書は市内全域に及ぶ悉皆調査の成果であり、市民の皆様方に親しみ喜んでいただけるものと存じます。  末尾ながら自然編刊行後執筆者田中智彦氏が死去(享年四十八歳)されたことを報告し、謹んで哀悼の意を表したいと存じます。

加西市史編さん委員会 委員長 福永文夫

問合先 教育委員会 生涯学習課 市史文化財係

TEL:0790-42-8775 FAX:0790-43-1803 mail:shogai@city.kasai.lg.jp

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