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第2号 特集「播磨国賀毛郡の地名伝承」

加西市史編さん委員会だより

1.賀茂郡の地名伝承

『播磨国風土記』にみえる賀茂郡(ほぼ現在の加西市・小野市・東条町・社町)の地名伝承は、次のようにあります。

『播磨国風土記』 下鴨里、土は中中。右二里、鴨里と号するゆえは、已に上に詳なり。但し、後に分ちて二里となす。故に上鴨・下鴨と曰う。品太天皇の巡行之時、此の鴨飛発し、修布井樹に居めり。此の時、天皇、問いて云く、『何の鳥か』、侍従當麻の品遅部君前玉、答て曰く『川に住める鴨なり』、勅して射さしめる時、一矢が二鳥にあたる。即ち矢を負いて山より岑を飛越し処は、鴨坂と号す。落ち倒れし処は、仍ち鴨谷と号す。羹を煮し処は、煮坂と号す。

鴨谷町

鴨谷町

『風土記』は和銅六年(七一三)に、朝廷が全国に命じて編さんされた地誌で、国ごとに古老の言い伝えなどをもとに作成されました。ここに鴨坂・鴨谷・煮坂(にさか)などの地名がみえます。風土記にみえる地名が現在のどこにあたるのか、興味のつきないところですが、現地を比定することは慎重にしなければなりません。現地比定の問題は、さしあたりおくこととして、ここでは地名伝承そのものに注目してみたいと思います。

風土記の伝承によると、元来ひとつであった鴨村が、後に上鴨・下鴨に分割された。上鴨里では、「品太天皇」すなわち応神天皇の巡行に際して、一矢を発したところ、二羽の鴨を射ち、それにちなんで鴨坂・鴨谷・煮坂の地名が生まれたと説明されています。ここで注目したいのは、上鴨里が説明される部分の伝承です。この地名起源伝承は、あえて言うならば、応神天皇と品遅部君前玉の鳥追い伝承と言ってもいいでしょう。品遅部(=品治部)君前玉はヤマトの葛城北部地域に属する當麻(奈良県當麻町)に本拠をもつ豪族と考えられます。 実は、古事記・日本書紀には、鳥追いに関するまとまった伝承が残されています。それは、垂仁天皇の皇子ホムチワケの伝承です。古事記にみえる伝承は、垂仁天皇と妃であるサホヒメとの間に生まれたホムチワケが、火中に出生したことにちなむ命名譚(話)と、成長しても言葉を発しなかった彼が、話をするようになるまでの物語により構成されます。

古事記により大まかな筋を述べると、ホムチワケの父は垂仁天皇で母はサホヒメですが、サホヒメの兄であるサホヒコは天皇により滅ぼされます。サホヒコが滅ぼされるに際して、燃えさかる稲城の中でサホヒメが皇子を出産し、皇子は救出され、ホムチワケと名づけられます。ホムチワケの「ホ」が火を意味するものとして文字通り解釈するならば、彼の名は、「火の中の高貴な人」というような意味になります。

ところが、彼は、成長しても話をすることがありませんでした。そんな彼が、高く飛び行く鵠(白鳥)の音を聞いて初めて「あれは?」と言葉を発しました。それに喜んだ天皇は鳥を追わせます。『古事記』によるとこの時派遣されたのが、山辺大 という人物で、彼は、木国(紀伊)・針間(播磨)・稲羽(因幡)・旦波(丹波)・多遅麻(但馬)・近淡海(近江)・三野(美濃)・尾張・科野(信濃)・高志(「こし」、越前・越中の「越」)へと追いかけ、ついに鳥を捕まえます。そして、その鳥を献上するのですが、これでもホムチワケは一言もしゃべりませんでした。そのため、出雲の大神を祭ってみたところ、ついに彼は言葉を発するようになりました。そこで、天皇は、ホムチワケにちなみ、鳥取部・鳥甘部・品治部・大湯坐・若湯坐などを設置した、とのことです。

この古事記のホムチワケの伝承をめぐっては、国文学でも研究が積み重ねられており、すでに火中出生と命名に関する部分については、これが漢訳仏典の『経律異相』による潤色であることが明らかにされています。また、物言わぬ皇子の部分についても『経律異相』に類似する部分がありますが、ここは多少異なる部分もあります。つまり、ホムチワケの伝承は、古事記を編さんするに際して『経律異相』を下敷きにしたことが明らかであり、この部分は、古事記編者の創作である可能性が考えられます。恐らくホムチワケの出来過ぎの名前も古事記の編者が火中出生の話に引きつけて作ったものであるかもしれません。日本書紀ではホムチワケではなくホムツワケとあります。 このように現在の古事記のホムチワケの物語には編者による創作の可能性が考えられる部分が含まれているのですが、鳥追い伝承の部分に関しては、現状ではそのような出典と考えられるものは見つかっていません。恐らく、この部分は古くから神話の核として存在していたのではないでしょうか。

鴨坂

市役所から見た鴨坂

そこで、記紀(古事記と日本書紀の総称)のホムチワケの鳥追い伝承についてですが、事実関係は別として、古事記では山辺大 が鵠を追って、播磨に至っていること、また品治部の設置がそれに関連して見えることに注目したいと思います。播磨国風土記の賀茂の地名伝承もすでに述べたように、鳥追いをモチーフとしていました。またここには品治部がみえます。両者は、密接に関連すると考えるべきでしょう。もちろん、播磨国風土記を作成するに際して、古事記など朝廷の伝承を参照した可能性も否定しきれませんが、風土記の地名起源では応神天皇の頃の話とされており、応神天皇をさかのぼる垂仁天皇の話としている古事記を下敷きにしたものとは考えられません。恐らく、播磨にも何らかの鳥追伝承が残されており、それが風土記に採録されたと考えるのが合理的でしょう。すなわち鳥追いの伝承が、宮廷だけではなく播磨にも存在していたのです。 『古事記』は、宮廷に伝わった帝紀・旧辞をまとめたものですが、帝紀とは皇統すなわち王の系譜であり、旧辞とは神話や伝承のことです。いまここで詳しく述べる余裕はありませんが、系譜と神話は、古代の社会を組織立ててゆく上で、大変重要な意味を持っていました。賀茂郡の地名起源伝承は古事記に残された伝承(旧辞)の別伝としての価値をもつものであり、この地域の歴史を復元する上で重要な鍵になると言えます。

古代史部会長 今津 勝紀

2.賀茂郡の住吉大社領と船木連氏

■住吉大社の杣山

北条町の住吉神社

北条町の住吉神社(酒見寺と並んで立つ) 

古代の賀茂郡は、大阪の住吉大社とたいへんゆかりの深い土地です。当時の住吉大社は国家的な航海守護神として、朝廷の厚い崇敬をうけていました。代々の神主の津守連(宿祢)氏は、神職であると同時に、外交官としても活躍する一族でした。この津守氏が九世紀末頃に作成したと考えられる『住吉大社神代記』(以下、『神代記』と略す)という古文書があります。そこには本郡内に「椅鹿山」と呼ばれる九万八千余町の杣山があると書かれています。  この杣山は、一つに大社の増改築用の材木を供給する役割をもっていました。もう一つは、海外へ向かう大型船舶の、造船用木材を伐り出す山林だったことです。現在この杣山の管理に関わった船木連氏という氏族の伝承に注目しています。これを通じて古代の賀茂郡の人々の生活像や東播地域全体の歴史的特色、あるいは当時の造船のあり方などを探ろうとしています。

■船木連氏の根拠地

『神代記』によると、そもそも椅鹿山という杣山は、船木連氏の遠祖の神が古くから領有し、神功皇后の時代に住吉大社へ寄進したとあります。その後、子孫の船木連宇麻呂・鼠緒・弓手らの三人が「山を斎き護り」、そこから船を造り献上したと伝えます。神功皇后は歴史上実在した人物ではありません。様々な要素の神話や信仰が組み入れられた伝説上の人物といわれています。したがって右の寄進年代などをそのまま信用することはできません。おそらく七世紀後半の天智天皇の頃、最終的に住吉大社領として公認されたのが実情だったようです。

東条川に架かる「ふなきばし」(小野市船木町)

東条川に架かる「ふなきばし」(小野市船木町)

しかし船木氏が代々この杣山を直接管理・領有する氏族だったことは、ほぼ間違いありません。今でも加東郡を流れる東条川の上流に、「椅鹿谷」(加東郡東条町)という地名が残ります。その下流付近の小野市には「船木町」(=明治十年までは船木村)の地名もあります。これをみると船木氏の根拠地が、この東条川流域にあった可能性はかなり高いといえます。近辺の住民を動員して多くの材木を伐採するとともに、それを加古川水系の舟運を利用して各地に運搬し、船舶の建造などに結びつけていたと思われます。なお十世紀にできた行政マニュアル『延喜式』の巻十には、賀茂郡内の式内社として「住吉神社」がでてきます。これを北条町内の「住吉酒見社」と同一視する見方があります。またこれとは別の加東郡内の住吉神社とみる見解もあり、すぐに結論は下せません。いずれにせよこの神社は、右の所領鎮護のため、中央の住吉神が分祠されたものでしょう。

■明石地域と船木連氏

明石地域と船木連氏

明石市屏風が浦海岸から見た明石海峡

ところが船木連氏の活動拠点は、当地のみに限られていませんでした。『神代記』には、前述の宇麻呂ら三人が、明石郡の船木村・黒田村・辟田村(いずれも所在地は不明)のうち合計二十五戸を、封戸として住吉大社へ寄進したと出てきます。明石郡には住吉大社ともつながりのある、式内社の「海神社」が垂水郷に鎮座します。またその近くには「住吉郷」という村もありました。船木氏はこの明石郡にも基盤をもち、住吉大社や津守氏に仕えていたようです。それではここでどのような活動を行っていたのでしょうか。

■鉄資材と丹沙の調達

「縮見の屯倉」の伝承地付近(三木市志染町越坂)

「縮見の屯倉」の伝承地付近(三木市志染町越坂)

その一つは、やはり船の建造に必要な鉄資材の獲得です。明石川の上流の押部谷や、その北方の山を一つ隔てた志染川流域の一帯は、優秀な渡来系の鉄器加工集団(=韓鍛冶部・忍海漢人)が住む地域で、その中心部には「縮見屯倉」と呼ばれる朝廷の直轄領もおかれていました。船木氏はここで得られる鉄製品を入手し、それを木造船の船材の一部として役立てていた可能性があります。  もう一つは、官船の船体に塗るための朱色塗料の素材、すなわち丹沙・朱沙(=硫化水銀)の調達です。『神代記』や『播磨国風土記』逸文には、この明石郡と紀伊国伊都郡の式内社「丹生都比女神社」や、その祭神のニホツヒメとの結びつきを示す説話が載せられています。このニホツヒメという神は、元来、硫化水銀の採掘者たちが奉じた神といわれています。船木氏は明石地域から、さらに海を渡り紀ノ川流域の伊都郡にも進出し、その採掘者集団から船舶用塗料の丹沙を供給していたと考えられます。こうした動きの前提の一つには、もともと海人系の一族であった津守氏が、朝廷内で一定の力をもち始めた事実があったと推測できます。

住吉大社関連図

住吉大社関連図

このように『神代記』に見える船木連氏の伝承は、賀茂郡と他地域との関連性や古代の造船に関する興味深い事実を提供してくれます。今後この船木氏と津守氏の関係、さらに船木氏の大和葛城地域への進出の問題などについて分析したいと思います。

古代史委員 坂江 渉

3.「既多寺大智度論」の原本調査について

滋賀県の石山寺に伝来し、現在、石山寺および各地に所在する「石山寺一切経」と呼ばれるお経があります。この中に含まれる大智度論(全百巻)は、播磨国賀茂郡の既多寺というお寺で写されたものであり、加西市およびその周辺地域と密接に関わると見られるお経です。したがって、このお経は、古代の加西市の社会や文化を考える上で不可欠な史料と考えられます。

そこで、私たち加西市史編さん委員会古代史部会のメンバーは、部会発足以来、このお経の原本調査と写真の収集を継続的に行ってきています。昨年度も、各地に出かけて原本調査を二回、写真・図録収集を一回実施しました。今回は、これまでの調査などを通してわかってきた興味深い事実や、それをふまえて今後考えなければならないことなどについて、若干の中間報告をしたいと思います。

東北大学での「大智度論」調査

東北大学での「大智度論」調査

私たちが共同で調査を進めている大智度論は、一巻ごとのお経の本文の後ろに「天平六年十一月二十三日播磨国賀茂郡(鴨郡)既多寺」という記載が見られるもので、そこから一般に、「既多寺大智度論」と呼ばれているものです。ちなみに、大智度論とは、大般若経(摩訶般若波羅密多経)六〇〇巻の注釈書で、大乗仏教の百科全書とも言うべきお経です。

さて、このお経の末尾の日付とその下の記載によれば、奈良時代前半の天平六年(七三四)に、播磨国の賀茂郡に既多寺というお寺があったことがわかります。この既多寺が、実際にどこにあったのかは、まだ確定していません。そのため、その所在をめぐっては、これまでも様々な説が提起されています。加西市に所在する「殿原廃寺」もその有力候補の一つにあげられています。

第74巻

第74巻

また、一巻ごとのお経の最末尾には、古代の播磨に当時住んでいた人々の名前が書かれています。これらの人々については、この大智度論の書写事業を発願したか、もしくはその写経事業の趣旨に賛同して結縁した知識(同一の仏教的善行の実施を発願して結びついた信仰集団)の人々、つまり、この写経事業のいわば共同スポンサーに相当する地方豪族であるとみられています。知識の参加者は、尼や女性と見られる名を持つ人々、播磨国造氏、播磨直氏、佐伯直氏、物部連氏およびその同族、石作氏、六人部氏、大野君氏、車持 連氏、平群朝臣氏など、じつに多彩です。  では、これらの写経の知識に参加した人々は、具体的にはどの地域のどのような性質の人々だったのでしょうか。昨年度の私たちの調査は、この点を解明する上で、大きな収穫をもたらすものになりました。  私たちは、昨年の八月二七日に島根県立博物館に赴き、石山寺一切経第三十七巻の原本調査を実施しました。ちなみにこの巻は、『日本写経現存目録』などの目録類には確認できますが、その後はその所在が明らかになっていませんでした。そして、そのことからも、従来、この三十七巻が、実際に天平六年の既多寺大智度論であるかどうかを疑問視する見方もありました。しかし、今回、今津勝紀古代史部会長と鳥津亮二さん(岡山大学大学院生)の追跡調査によって、この石山寺第三十七巻の所在が判明したのです。そこで私たちは直ちに島根に向かいました。

さて、実際に原本を見ると、この三十七巻は、まぎれもなく既多寺大智度論の第三十七巻であることがわかりました。しかも、日付のあとの最末尾には、『日本写経現存目録』の記載情報の通りに、「神崎郡六人部奈伎佐」とありました。私たちは、この末尾記載に非常に注目し、驚きました。なぜなら、この知識者名は、以下のような、様々な情報を提示してくれるものだったからです。  第一に、『日本写経現存目録』の記載情報の確かさが、ある程度裏付けられました。この点は、今後の調査・研究や市史の執筆にとって非常に有益なことです。なぜなら、大智度論に含まれると見られるお経のうち、現在未確認で、今後も様々な事情により調査の進展が期待できないと思われる巻であっても、ある程度、この『目録』の記載情報を信頼して、それを利用することが可能になるからです。

第37巻「神崎郡」と記してある

第37巻「神崎郡」と記してある

第二に、加西市およびその周辺部の古代史像の解明にとってより重要なこととしては、知識参加者の出身地が具体的に明らかになったことがあげられます。この三十七巻の知識者である六人部奈伎佐は、神崎郡を本貫=出身地とする人であることがわかりました。巻三十五、三十六、三十八、三十九はまだ未調査です。しかし、『日本古写経現存目録』によれば、それも同じく六人部奈伎佐が知識であることがわかります。したがってこれらの巻にも、同様の記載が存在する可能性があると思われます。また同じく『目録』によれば、巻三十六の佐伯宜(直)等美女の出身地も神崎郡とされています。このように、写経事業の知識には神崎郡出身の人が参加していることが確実になりました。  また、この六人部奈伎佐の記載は、逆に、「神埼(神崎)」郡」という記載がないか、ないと推定される多くの知識参加者の出身地をも明らかにしてくれました。先ほど述べましたように、この写経事業は賀茂郡の既多寺というお寺で実施されました。したがって、出身地を記さない知識者は、わざわざそのことを記す必要がない人々、すなわち、既多寺が所在した賀茂郡の出身者であろうと考えられるのです。

第三に、古代の賀茂郡とその周辺部とのつながりの深さが、従来よりも一層具体的に明らかになりました。神崎郡出身者が既多寺大智度論の知識に参加していることは、既多寺が所在した賀茂郡と神埼郡とが、文化的にかなり強い結びつきを有していることを示していると思われます。奈良の藤原宮から出土した木簡によれば、七世紀末ころまでには「加毛評」と「神前評」とが見られ、すでにこの時点でそれぞれが異なる行政単位に編成されていたことがわかります。にもかかわらず、大智度論が書写された八世紀の第二四半期ごろまでも、両者は文化的に密接に結びつく地域であったのです。その結びつきのあり方の具体的な解明は、今後の課題とせざるを得ませんが、おそらくそれは、三輪│賀茂の神の信仰にも関わる、かなり古い歴史的・文化的伝統を背景にもつものと推測されます。

第71巻 針間(播磨)国造とある

第71巻 針間(播磨)国造とある

ところで、既多寺大智度論は、はじめにも述べましたとおり、かつて石山寺に伝来し、石山寺一切経と呼ばれていました。では、播磨国賀茂郡で写されたお経が、なぜ滋賀県の石山寺に伝わったのでしょうか。この点については、はっきりしたことはわかりません。ただし写真で確認すると、巻五十には巻首に、経文やあとがきとは別筆で、「天安二年(八五八)山階寺(興福寺)傳書」とあります。よって、このお経は九世紀の半ば頃には、既に播磨国ではなく中央にあったことがわかります。石山寺へはその後いずれかの時期に、おそらくは奈良県の興福寺もしくは他の中央寺院から移ってきたものでしょう。ちなみに、八十六巻の巻末写真によれば、「治承四年(一一八〇)五月十九日於石山寺以他本此交了…」という朱書きの別筆記載があることがわかります。したがって正確な時期は不明ですが、このお経は、一二世紀末以前までには石山寺に入り、そこで校訂されていたことになるわけです。

このように、この間の大智度論の原本(および写真による)調査は、さまざまな新事実をもたらしてくれています。同時に、調査の進展は、私たちに、上記したような、さまざまな新たなる疑問や課題を提示するものともなっています。私たち古代史部会では、今後ともこうした大智度論の原本調査と検討をすすめ、それを通して加西市の古代の歴史を、より豊かに明らかにしていきたいと考えています。

古代史委員 中林 隆之

 

編集後記

柏原市長(右)と福永委員長(左)

柏原市長(右)と福永委員長(左)

編集だより」第2号を、遅れましたが皆様のお手元に届けさせていただきます。  さて、これに先立つ8月20日、福永文夫市史編さん委員会委員長が市役所に、柏原正之新市長を訪ねました。委員長から、編さん事業への変らぬ支援と協力の要請とともに、「自然編」発行に向け鋭意奮闘中である旨報告がなされました。これに対し、市長から若干の質問と意見が示され、今後とも密に連絡をとりつつ、相協力し事業を進めていくこと等が話し合われました。

問合先 教育委員会 生涯学習課 市史文化財係

TEL:0790-42-8775 FAX:0790-43-1803 mail:shogai@city.kasai.lg.jp

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